68回目の敗戦の日。

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おはようございます。
大津市議会議員、藤井哲也です。

本日は68回目の敗戦の日です。
日本人にとっては大切な日だと思います。
心鎮かに故人に感謝したいと思います。
(ありがとうございます)

少し細かいことかもしれませんが、私は8月15日を「終戦の日」とは捉えていません。
やはり日本人にとっては「敗戦の日」だと思っています。
終戦の日だと何か他人事のようで、戦争に負けたということを受容していない言い方の様な気がしてなりません。
負けたことをきちんと受け入れ、そしてなぜ負けたのかを分析しようとする姿勢を持たねば、同じことを繰り返すと思うのです。だから敢えて「敗戦の日」と呼んでいます。


以下、歴史の教科書に書いていることのまとめになるかもしれませんが、私個人の考えです。

なぜ戦争に負けたのか、戦略的、戦術的な話になると、ドイツ第三帝国との同盟を結んだということや、二正面作戦をとったこと、戦争終結の着地点を設定せず機会も逃したこと、兵站を軽視したこと、技術(特に通信技術)に後れを取ったこと、戦力を逐次投入したこと、また幹部同士の意思疎通が十分ではなく司令官の方針も曖昧だったこと等が挙げられると思います。

しかしそうした戦略面、戦術面は軍事評論家に任せておくとして、政治家としては、当時では世界最先端の民主主義的憲法とも言える大日本帝国憲法下のおいて、なぜ政党政治が機能しなかったのか、という観点からです。


様々な要因があり、どれが原因と言うことも言えないとは思いますが、その中でも重要だと思うのは、地域の困窮が大きな要因の一つではないかと思うのです。

1904年の日露戦争に大日本帝国は勝ちましたが、歴史の教科書でも書いてあるように、米国ポーツマスで締結されたポーツマス条約では、ロシア帝国はほぼ一切の譲歩を見せることなく、最終的には賠償金は払わず、領土割譲も樺太の南半分にとどまりました。(それにより日本国内では日比谷騒動に代表される条約反対運動が起きました)
賠償金が獲得できなかったことは、長く経済に悪影響を及ぼしたと思うのですが、それを吹き飛ばしたのが、1914年に欧州でおきた第1次世界大戦です。世界の工場になった大日本帝国は空前の好況に沸いたと言います。

その後、国民生活も向上したこともあり、護憲運動が盛んとなり、普通選挙権(1925年)に象徴されるように民意が政治に反映される風潮が強まったと思います。

しかし1929年に端を発した世界恐慌は大日本帝国憲法のブロック経済圏にも影響を及ぼし、地域はひどく困窮したとのことです。これは歴史の教科書にも載っています。
そうしたなかでも為替などにより巨万の富を得ていた財閥や、賄賂などが横行していた政党政治に対して、地方を中心に国民の不満は高まり、また1930年のロンドン海軍軍縮条約により不満を抱いた軍部の一部が5・15事件を引き起こし犬養毅首相が殺害されるなどするなかで、政党政治は急速に衰えていった。
5・15事件は昭和天皇の英断により処断されるところになりましたが、国民の政治不信は収れんすることはなかったようです。

ここで重大な問題が起きているのですが、それがロンドン海軍軍縮条約締結における民政党(浜口)政友会(犬養・鳩山)との間における統帥権干犯問題です。
歴史の評価は100人いれば100通りあると思いますが、私は やはり政局に統帥権干犯問題を持ち出した鳩山ら政友会は、政党政治を自殺に追いやったと思います。
これ以降、軍部が露骨に政治に介入をするようになり、民主主義は危機に陥ることになっていきました。

1932年、満州事変が起き、満州国が建国されました。
これに伴い、世界から日本は孤立し、国際連盟からも脱退することになりました。
世界恐慌の影響が色濃く、経済不況のさなか、世界経済から孤立することによって日本の経済は停滞することになりました。
特筆すべきは、中国(中華民国)と米国を仮想敵国にして軍備拡張を行ったため、国防費・軍事費は国家予算の半分以上を占めたとのことです。いまの北朝鮮の様な状況でしょうか。

言うまでもなく、地方は疲弊します。
農家の次男坊、三男坊は軍隊に入隊し、食いぶちを稼ぐことになりますが、軍隊の給与は平時においてはたかが知れている額だったようです。
1930年代の国民の中には、たった15年ほどまえに起きた第1次世界大戦の時の好景気の思い出が鮮明に残っていたと思います。「戦争が起きれば豊かになる」と。
そして明治以来、日本は急速に発展し、日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)と大国に大勝利を収めてきました。勇ましいことがよいことで(私も悪いことだと思いませんが)、日本はいついかなる時でも勝てるという空気が漂っていたのではないかと思います。

スポーツ新聞を例にとるのはスポーツ新聞に失礼だと思うのですが、自分の応援するチームが勝って、見出しに勇ましいことが書かれていればやはり嬉しくなるでしょうし、そのスポーツ新聞の売れ行きは良くなると思います。

当時の朝日新聞はそれでもなお、軍部に対して厳しい論調を貼っていましたが、当時の毎日新聞が満州事変などで大いに活躍を喧伝するなどした際に、朝日新聞の販売部数は大きく減少したとのことで、それ以後 朝日新聞はじめ各紙は軍部寄り?の記事を書くようになったとのことです。
国民の中にとっては、大日本帝国がまた一つ権益を拡大したりすれば、正直 嬉しかったと思うのです。
(私もきっとそうなったと思います。スポーツを例にとるのはおかしいかもしれませんが、やはりオリンピックやサッカーワールドカップなどで日本代表が勝つと嬉しくなります。)

多くの国民が政党政治よりも軍部を応援したと言えるのではないかと思うのです。


浜口雄幸首相(当時)は、政党政治を「世界多数の文明国に於ける政治の形式であって、他に代るべき良き政治の形式を見出すことが出来ないため」と評価していたとのことです。つまり、政党政治は最高の形態のものではなく、「現代は政党政治の試験時代」だと考えていました。

多くの政治家もきっとそうだったのではないかと思いますし、5・15事件後、軍閥から首相(斎藤実)を抜擢した西園寺公望元老も軍部を抑えるための一時的な処方と捉えていたと考えられます。


いずれにせよ、統帥権干犯問題や、政党政治の腐敗と失政による地方の困窮(格差拡大)は、軍部が得点を重ねたと言うよりも、政党政治が失点を重ねたという評価を私はしています。政党政治は浜口首相(当時)が言う「試験時代」を乗り越えられず、民意を得られなかったと思うのです。

満州事変以後は、挙国一致体制が敷かれ、国家総動員法(1938年)などにいたるように、軍部の影響が一層強まり、暴走というより制御能力の劣化により戦争に突入することになったと思います。


ここで今日、敗戦の日にあらためて考えることは、
「政党政治への信頼」だと思います。

政治家(議員)は、国民または市民の代表者であり、国民または市民から負託を受けたポジションであるということを改めて認識するところです。

なぜ負けたのか、そのことを歴史をさかのぼり考えてみると、私はこの問題に尽きると思います。


実は当時と今とは私は状況が似てきていると感じています。
経済格差が広がり、先行きの不透明さもあります。
今の自民党や維新の一部の勢力を右といっては問題があるかもしれませんが、そうした右寄りのことを述べる政党、政治家がもてはやされ支持されます。

こうした心理は、「自由からの逃走」(Eフロム)を参考にするならば、完全な自由の中で、どうすればよくなった人々が強いリーダーシップ(指導者)を求めるものに近いように感じます。いわゆる全体主義的風潮です。
 
再び、日本が軍国にならないよう(国防力の保持は勿論必要との立場です)、政治家には国民、市民から信頼される行動を取らねばならないと思います。
そして経済格差から生じる貧困の問題にも取り組まねばならないと思います。


長くなり雑駁な内容となりましたが、あらためてこの日に議員としての役割を考えたところです。
歴史評価は一定ではありませんので、その点もご容赦頂けましたら幸いです。


大津市議会議員 藤井哲也拝











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