河内神社(真野大野)について

ホームブログ>河内神社(真野大野)について



 大津市真野大野に「河内神社」という、いかにも村の社の立派な風格を備えた神社があります。
 真野には、歴史が古い上下の神田神社いずれも、端午の節句(こどもの日)にお御輿行事がありませんが、真野で唯一、お御輿を担ぐのが大野の河内神社です。








 滋賀県神社庁による「河内神社」の説明では、『明細書によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると桓武天皇延暦年間、藤原百川が龍華荘を領し居を有したが、真野に座す神田神社を崇敬し参拝の途次、領内大野の土地が、高燥風景絶佳であるのを賛美し、河内の国の地形に似ているとして氏の神牧岡の神を勧請一宇を建立したのが当社の創立とされている。明治九年村社に加列。 一月六日当家に於て、藁に稲穂と樒を挿したものを作り、農家はこれを田の水口に立てて豊穣を祈る「花葛」の行事がある。』とあります。

 藤原式家(宇合が祖。平城太政天皇の変=薬子の乱までは政権中枢。その後、藤原北家=摂関家が台頭する。)の宇合の八男にあたる、藤原百川(ふじわらのももかわ)が、伊香立龍華荘を知行地として持ち住んでいた時に、真野の神田神社を参拝した際に、大野の地を気に入り、河内神社を創建したということです。

 藤原百川は、兄の良嗣とともに天武天皇系から天智天皇系への転換を図り、のちの桓武天皇擁立に大きく貢献した人物で、娘の藤原旅子(ふじわらのたびこ)は785年に桓武天皇の後宮に入り後の淳和天皇を生んでいます。ちなみに旅子は死に際して、「吾が出生の地比良南麓に梛の大樹あり、その下に葬るべし」と遺し、故郷である龍華荘に葬られたそうで、その場所には現在、還来神社(祭神は藤原旅子霊)となっています。

 ここで疑問なのが、「神田神社」に藤原百川が参拝しとありますが、この時は未だ「神田神社」はなかったであろうということです。つまり、「下の神田神社」ができたのは810年とされており、そこから「上の神田神社」が分かれたのが932年とされているため、藤原百川(732年~779年)の生前中には、上下どちらの神田神社もなかったことになります。しかも延暦年間(782年~806年)には、すでに藤原百川はこの世にはいません。
 
 辻褄をあわせようと考えるならば、真野臣が間野大明神を祀って建てた一棟(ここでは仮に「真野神社」と呼びます)を藤原百川は参拝していたのではないかと考えられます。これを「真野神社」であった場所に「元神田神社」から祭神が勧請されて改めて創建された「(上の)神田神社」という名称の方が一般的になってから、後世の人が「百川が参拝した」ということを伝えてきたのではないかと思います。
 また、百川がこの場所を賛美したのは正しいにしても、河内神社を創建したのは、百川ではなく、もしかしたら藤原旅子か藤原式家ではないかと考えます。旅子が死に際して生まれ故郷の伊香立に戻ることを選んだように、旅子のこの地域への愛着はかなり高かったと思うのです。(どちらにしても細かすぎてどうでもいい話かも知れませんが。)


 神田神社が真野臣を媒介として、真野普門、真野澤・中村・北村と関連が深いとすれば、上記逸話からも分かるように、真野大野、家田、佐川及び真野谷口は、伊香立とつながりが深い地域です。

 「むらのきおくー真野の歴史ー」には、家田の地名由来に関して次のような記載があります。

 昔、家田は南庄に属していた。南庄の東、今の家田のあたりは田畑があっただけである。南庄からこのあたりまで農耕に来るのが遠いため、田のために家をつくろう、すなわち田の家、つまり家田の地名が起こったのである。だから家田の神は南庄の神と同じで、源融を祀っている。融神社がそれである。源融は近江の国司で、特にこの地を愛され、よい政治をされたという。村人は融侯によく従い農に励んだという。はじめに移り住んだのは八軒で、今は倍の十八軒で小さな部落である、つい最近まで南庄の山野の草刈りは許されていたし、今も南庄の祭りにはおこわをいただいて食べるという風習が残っている。


 藤原式家(百川や旅子)、その後、源融(源氏物語の主人公「光源氏」のモデル。嵯峨天皇の子。842年に近江守。)の知行地であった伊香立の荘の一部として、真野大野や家田、佐川があり、谷口も考えられていたのだと思います。
 源融の父である嵯峨天皇の時代(809-823)に、新撰姓氏録が作られ、(下の)神田神社も創建されるなど、「真野」は大変、この天皇とも中世 縁があったようにも思われます。


 真野大野の「河内神社」の祭神は、天児屋根命、比売神、斎主命、建甕槌命の4柱です。
 天児屋根命は中臣氏(藤原氏)の祖神とされる人物で、他の3柱もいずれも藤原氏系の人物及び象徴とされています。そのように見ると、大野の「河内神社」は、バリバリの藤原氏の神社であると言えます。
 現在、東大阪市河内国一の宮の「枚岡神社」は中臣氏の氏神とされており、同様に天児屋根命、比売神(比売御神)、斎主命(経津主命)、建甕槌命を祀っています。ちなみに中臣氏が藤原氏となってから創建した春日大社には、この枚岡神社から天児屋根命と比売御神の分霊が勧請されています。
 おそらくこの「枚岡神社」近くの河内の風景と、真野大野の風景が似ており、藤原百川(若しくは旅子、藤原式家)は、先祖の中臣氏の故郷への郷愁もあって、大野河内神社を創建したのではないでしょうか。


 この神社のお御輿は江戸時代前期のものと推定され、2014年6月に大野自治会から、お御輿が古く担ぐ時も重たいので、現代風のお御輿に造り替えたいという相談があった際に、かねてから文化財としての価値があるのではないかと思っていたことから、市の文化財保護課の学芸員の方に来てもらい見てもらったところ、やはり大変価値があるものだということになり、お御輿を造り替えるのではなく、現にあるお御輿を修繕して今後も使っていくということになりました。この調査の際に、神社や倉庫にあった江戸期の書類も多く発見され、私自身は見ていませんが、大津市文化財保護課には調査結果が残っているものと思います。



 近年、大野に住む人も若者を中心に減少傾向にあり、最近では本御輿だけしか5月5日には使われません。少し前までは子供御輿も動いていたのですが。
 文化的価値の高いお御輿行事も、やはり伝統行事と相まって残っていくものとも言え、その伝統文化を守っていくためには、人口減少対策が必要だと思います。もしくは、時代の変化と合わせて他の地域でも一般的になってきたお御輿を軽トラックに積んだり、台車に乗せて動かすというのもありかもしれませんが、やはり風情は全然違ったものじゃないかなと思う訳です。真野で唯一残っているお御輿巡行を、これからも引き継いでいくために、真野一帯の活性化は欠かせないと考えています。


フジイテツヤ


 

 



▲ページのトップへ