2つの神田神社(追記①)

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 以前、「大津市真野について(4)~2つの神田神社~」という記事を書きました。この記事に追記する形で、2つ記事を書きたいと思います。

 真野には2つの「神田神社」があります。一般的に「普門の神田神社(又は、上の神田神社)」と呼ばれる社と、「神田神社(又は、下の神田神社)」です。前記事で「下の神田神社」のかつての立地場所が、琵琶湖の波打ち際の下河原と呼ばれる地にあったということを書きました。そのことから、まずは「下の神田神社」について書きたいと思います。

 何回か紹介させて頂いている「むらのきろく」では、下の神田神社に関して次のように述べられています。

〇神田神社
 嵯峨天皇弘仁二年(811年)に藤の木に鎮座し、祭神は真野の彦土神 彦国葺命である。現真野家の先祖に当る。神田神社は古くは、ミトシロのカミのヤシロとよび、伊勢内宮の御供田に属していた。延喜式神名帳に近江国滋賀郡八座の中に神田神社の名が記され、住吉真野臣の先祖を祭神とするとある。真野臣は天足彦国押人命の孫、彦国葺命の子孫である。その系統の大矢田宿祢が神功皇后の三韓征伐に従って新羅に渡り征伐後その地に残り鎮守将軍となる。新羅王猶榻の女と結婚して二人の男をもうけ、兄を佐久命、弟を武義命という。持統天皇より真野臣の姓をうける。古事記、日本書紀にも同様の記載がある。隣郷に小野族がいたがともに大和の春日臣の系統である。この真野は墾田を意味している。神田の社記は前記の通りであるが、真野氏の中の長者が神主をしておりこの仲間をモトロ仲間という。奈良時代は興福寺関係で後宇多天皇弘安二年(注:1279年)に鎌倉将軍惟康親王の寄進で別当神宮寺と護摩堂を創立し、天台宗となる。伏見天皇永仁年間に神司真野氏は近江守護 佐々木六角に属し神殿を改修し、神田を寄進。織田信長の延暦寺焼討のとき焼失する。明暦2年(1656年)新しい社殿を造営する。

〇十七夜 サンヤレ祭
 一月十七日の夜あるから十七夜。またそのときサンヤレ(幸あれ)とさけぶからサンヤレ祭。両方いう。昔は“こうさい”祭といっている。もとは沢の真野一族の行っていた行事であったが明治維新後は沢、北村、中村の組全体の行事となってきた。この行事は中、沢、北村の男子が一本ずつ松明を点じて神社に参拝する行事である。藤の木から現在の地へ神田神社を移転したときの模様を再現しているのである。各組の男子は藤の木に集合する。集合の順序は沢が先頭で中村、北村がこれに続く。全部そろったとき「サンヤレ、サンヤレ」とおどるのである。この夜は特に寒さが厳しくあるが、行事に従う若者は負けていない。もともと神田神社の神、彦国葺命は荒行を好まれる神で勇ましいことを喜ばれる。万灯のように松明をかざして行列は続く。昔はもっと盛大であったらしいが、いまは静かな行列になっている。この松明の火は夏やせに効くというので火にあたる人が多い。

〇神宮寺の鐘
 正応三年(注:1290年)矢田部宗次と銘のある古鐘は神田神社の神宮寺の鐘である。室町時代の戦国の世、真野氏は佐々木六角に属し戦った。この鐘は対岸兵主の兵主神社に一時納められていた。明治になって浜出身の三宮式部長がとり戻され、いま浜の正源寺にある。



 下の神田神社が創建されたのは811年ということです。時代背景を考えると、壬申の乱から140年近く経っており、平安遷都から17年。平城太政天皇が弟の嵯峨天皇に対して平城京への遷都を指示し嵯峨天皇がこれを拒否したから発した変事(薬子の変とも)が810年に起きた翌年です。815年に嵯峨天皇が命じて古代氏族名鑑「新撰姓氏録」を編纂する直前です。

 今年は維新150年の節目の年ですが、西郷隆盛はどのような人物であったのか諸説あったりするなど不正確です。自分自身の150年前の先祖がどのような人だったかを知っている人はあまりいないのではないでしょうか。私自身のことでいえば墓石に「金吹屋」という屋号が彫ってあり、そのことから江戸時代は灰吹きにより金を鋳造していた家系ということが分かるだけです。
 西暦800年頃、寿命も今とは比べ物にならないくらい短く、壬申の乱後、何世代も経っている状況では、すでに自分自身の出自も曖昧になりつつあったのではないかとも思います。嵯峨天皇が古代氏族(古代豪族に対する改賜姓も含めて)のルーツを明らかにして、平安の世を築くための材料にしたかったのかもしれません。同じく、真野臣自身もアイデンティティ、ルーツを明らかにしようと改めて「彦国葺命」を祭神として、真野の入江に接した自身の領地「ミトシロ(神田)」の地に、神社を建てたのかもしれません。
 私が気になったのは、「神田神社は古くは、ミトシロのカミのヤシロとよび、伊勢内宮の御供田に属していた。」という部分です。確かに伊勢神宮は当時においても最高権威といえる神社格と言えますが、伊勢内宮に供えた神田に神社を建てたことに、天皇家との結びつきを明確にしたいという想いを感じ取る事ができます。
 確かに「上の神田神社」がある元々の真野臣の発祥地である普門山と、現在の「下の神田神社」、そして元々あったと考えられる下河原の「下の神田神社」を直線で結び、その直接をまっすぐと伸ばせば、(偶然にも?)伊勢内宮にあたります。







 また、「下の神田神社」が毎年1月17日に行っている、「サンヤレ祭」は、非常に荘厳な雰囲気の中で行われます。私もほぼ毎年、見に行くようにしています。






 神田神社は、延喜式神名帳(927年に完成)で近江国滋賀郡(現在の瀬田地域を除く大津市の大部分)に記載された8神社のうちの1つで、当時からかなり格式が高かったと言えます。景勝地の真野入江近くにあり、日本海方面に向かう人は必ず神田神社を見ながら歩いたということから立地的に知名度も高かったのかもしれません。

 ちなみに滋賀郡にあった8座は、「那波加神社(苗鹿)」、「倭神社(坂本又は滋賀里)」、「石坐神社(西の庄)」、「神田神社(真野)」、「小野神社二座(天皇神社、小野神社、小野道風神社のうち2社)」、「日吉大社(坂本)」、「小椋神社(仰木)」です。

 下の神田神社境内にある「神宮寺」のことも書きたいのですが、また機会があればとしたいと思います。


フジイテツヤ



 


 

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