支所統廃合検討に関する雑感

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 他の動物にしてみれば、人間はすでにとうの昔に神になっている。私たちはこれについてあまり深く考えたがらない。なぜなら私たちはこれまで、とりたてて公正な神でも慈悲深い神でもなかったからだ。ナショナルジオグラフィックチャネルの番組を見たり、ディズニーの映画に行ったり、おとぎ話の本を読んだりすると、地球という惑星には主にライオンやオオカミやトラが住んでおり、彼らは私たち人間と対等な存在だという印象を受けてもおかしくない。(中略)だが現実には、動物たちはもうそこにはいない。私たちのテレビ番組や本、幻想や悪夢は相変わらず動物で満ち溢れているが、シンバやシア・カーンや大きくて悪いオオカミは地球から姿を消しつつある。この世界に住んでいるのは、主に人間とその家畜なのだ。
 (「ホモ・デウス」(ユヴァル・ノア・ハラリ,河出書房新社 2018 93頁)



 人間以外の動物から人間を見たら、人間は神に見えるかもしれない。
 人は時々、鳥を見て思います。「あんなふうに、空を飛べたらな。」
 そんなふうに思われながら、飛んでいる鳥は、人間を眼下に見ながら、どのように思っているのでしょうか。

 立場や視点によって、見え方は全然違います。
 
 
 私が1歳から11歳まで過ごした大津市の平野学区では、びわ湖岸にあり、琵琶湖総合開発によってマンション群が立ち並びました。西武百貨店から膳所駅にかけて多くの人通りがあり、幼心に、「なんでも近くにあって便利でいいところだ」と感じていました。

 12歳になる目前の小学校6年生の夏。大津北部の真野学区に引っ越してきました。当時は大津市と志賀町の合併前だったので、真野が大津市の最北端の町です。真野北学区ができたかできなかったという時期で、びわ湖ローズタウンには多くの新住民が移住してきたものの、私が住んだ真野学区は、農村という言葉がぴったりの田舎町でした。堅田駅西口はもちろん田んぼで、堅田方面に行けばダイエーや平和堂、びわ湖タワーなどがあり、それなりに遊ぶ場はあったように思いますが、それでも平野学区から来た私としては、不便さと田舎っぽさを感じていました。


 なぜ市民センター機能等あり方検討、なかでも支所統廃合について、大津市のそこらじゅうで反対意見が出ている一方で、市の素案に対して賛同や、賛同まではいかずとも積極的に反対しない(どちらでもいい)と考える人がいるのかと言えば、「立場や視点が違う」ことにあるのだと考えます。

  
 もちろん支所を使ったことがない人にとっては、支所は不要で統廃合すべきだと思います。
 支所を使ったことがある人でも、回数が限られていたり、統廃合される支所に普通にアクセスできる人たちや世代にとっては、統廃合されてもなんら問題ないと感じるでしょう。

 しかしそうでない人もいます。
 それは高齢者に限らず、障害者、または足腰が悪い人や、慢性的に健康がすぐれない人、もしくは自家用車がない人や場合によっては自転車を運転できない人なども当てはまります。総称すれば「社会的弱者」と言えるかもしれません。

 「社会的弱者」の人の立場から見ると、支所という場所は、物理的なアクセスのしやすさは非常に重要であり、同時に心理的な拠りどころとなっていると感じます。逆に、「社会的弱者」ではない人の立場では、支所の問題はどうでもいいと感じられるかもしれません。だから、反対ではない⇒統廃合賛成、という考えになるかもしれません。




 グループ間相互の理解促進は難しいと思います。
 人間は鳥になったことはないし、鳥の気持ちになることはありません。家畜になったこともないので神のような存在である人間を畏怖する気持ちも分かりません。
 飛行機に乗れば、少しは鳥の気持ちになることもできるかもしれません。しかし、飛行機に乗って鳥の気持ちを理解しようという意思がなければ、いつまでもたっても、人間は鳥の気持ちを慮ることもありません。

 
 私自身、支所統廃合の議論にあっては、基本的には反対の立場でいます。
 フル機能を備えた「支所」でなくとも、機能を限定した「出張所」としてでも、市職員が常駐する行政窓口の存在が地域には必要だと考えています。

 それは経験によるものかもしれません。
 平野学区に住んでいる人は、きっと真野学区のことを理解できないかもしれません。しかし、私はその両方を経験しています。市街地に住んでいる人にとって、支所の存在意義というのは、そんなに高くないかもしれません。しかし、縁辺部や市街化調整区域に住んでいる人にとっては、支所が地域からなくなることが地域衰退のはじまりと思っても仕方ありません。地域活性のための最後の砦が支所なのかもしれません。

 または私は数年前に右膝の半月板を損傷し、約1年間にわたり懸命にリハビリに努めたものの歩行困難であり、少しの段差も大変大きなハードルに感じました。その後も現在に至るまで、鍼灸整骨院に通い、患部の痛みをとるために、最善の努力を続けていますが、痛みが完全になくなることはありません。常に足の痛み、それが昂じて身体全体の不調と隣り合わせです。
 そうした経験は、高齢者や足腰の悪い人の気持ちを理解する一助となりました。鳥にはなれませんが、飛行機に乗って、鳥になったような気分です。
 確かに、高齢者の方々がいうように、すぐ近くに支所があってアクセスできる環境というのは必要な気がします。あんしん長寿相談所によるアウトリーチ型のサービスが提供されようとも、介護だけではなく、様々な生活の悩みや、相談できる心理的距離がある安心感は、重要だと思うのです。

 
 行政は、様々な立場の人から意見を聴き、意見を尊重しなければなりません。
 それは単なる我がままではなく、心からのニーズなのです。
 視点が違えば、見え方は全然違います。行政自身が、ある特定の視点からでしか、物事を視ないのであるとすれば、それは市民の公共福祉の向上においても、ある特定の視点からでしか見れていないことを意味します。

 また同時に、支所統廃合に反対の立場の人と、賛成の立場の人も、それぞれが、相互の立場や視点を理解することも必要なのかもしれません。どちらかと言えば、「社会的弱者」ではない人が、「社会的弱者」と呼ばれる人のことを、理解しようとすることが求められるように思います。そうなることで、支所統廃合による合理化、経費節減が果たして妥当なのか、あらためて内省する機会になるはずで、自分が高齢者になったり、または障害を負ったり、または半月板を損傷していつなんどき歩けなくなるか分からない状況になったとしても、行政がそこにある意義を感じられるようになるかもしれません。
 誰しもが、明日、歩けなくなるかもしれず(今日、たまたま何事もなく歩く事ができるだけであり)、持続可能な人間生活を考えるならば、支所統廃合の議論の見方も、変わってくるかもしれません。


 最近のブログ記事を読んでいただけるのであれば、支所統廃合に反対の視点では、どのように物事が見えているのか、そうしたことを知っていただきたいと考えています。
 
 

フジイテツヤ





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