大津市真野について(8)~戦国の真野①~

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応仁の乱後の戦国時代。歴史に「真野」の地名は2回登場します。

1518年に真野城主 真野土佐守信重が、北近江国人 浅井備前守亮政に攻められ落城。真野氏が野に下る。
1570年に真野城主 真野十左衛門元貞が、織田信長に攻められ落城。城を脱した真野元貞は出家して西養坊宗誉れと号して領民の幸せを祈る余生を過ごした。

たったこれだけですが、当時の歴史背景などを考証して真野にスポットライトを当てたいと思います。

現在の真野城
(真野城跡とされる丘、現在は昌法寺)


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真野土佐守信重の祖先は正確には古代豪族の「真野臣」の一族ではなく、宇多源氏(佐々木氏)と思われます。

宇多天皇を祖とする「近江源氏」として現在の滋賀県に土着したのは、西暦1000年前後の頃だと思います。
936年に宇多天皇の孫である源雅信が「源」姓を賜り臣籍に下り、その孫の源成頼(976年‐1003年)が近江に土着して宇多源氏系佐々木氏の祖となり、その孫の源(佐々木)経方は近江国蒲生郡佐々木荘に住んだと言われています。

その佐々木氏ですが、もともとは倭の五王時代に活躍した孝元天皇の子孫「狭々城山君(ささきやまぎみ)」を祖と伝える「佐々貴山公氏(ささきやまのきみうじ)」であり、現在も近江八幡市安土町にある「沙沙貴(ささき)神社」を氏神として、古代近江国の蒲生郡を中心に栄えていました。
そこに、源(佐々木)経久が古代豪族「佐々貴公氏」家の養子に入ったか、自ら称したか詳細不明ですが、いずれにせよ佐々木家本流となりました。なぜ佐々木家を名乗ったかはわかりませんが、簡単に言えば統治に有利なブランド力があったのでしょう。
佐々木の名称の由来は、先にも述べた「狭々城山君」にありますが、さらに遡ると鳥の王様と古代に呼ばれた「鷦鷯(さざい)」を名前に冠した「仁徳天皇」(大鷦鷯天皇=おほさざきのすめらみこと)に関係するとも一説に言われます。

これ以後、「宇多源氏系佐々木氏」はその一族を、古代豪族と婚姻や養子縁組などをして、ブランド力ある氏姓を名乗っていくことになります。紀氏や、建部氏、伊庭氏、愛知氏、井氏など。
そしてその中の一つに「真野臣」があったようです。
佐々木氏は室町幕府創設の功績が大きく、特に足利尊氏との関係が深かった佐々木(京極)道誉などの活躍が有名です。佐々木氏は近江などで大きな力を持つようになりました。

佐々木氏と真野との関係ですが、すでに平安後期には沙沙貴神社の神主を務めるなどして土着していた宇多源氏佐々木経方の子である佐々木行範が近江国蒲生郡で間野(真野)を名乗り、孫である佐々木貞時が、1273年5月に近江国真野荘に入り、古代豪族・真野臣と何らかの接点を持って真野氏を名乗ることになったようです。以来真野の地に土着したようです。

※推測の域を出ませんが、1300年代後半に古代豪族真野臣と関係が深い神田神社が、儀礼の取扱いについて地域内で意見が二分し、「上」と「下」の2社に分かれた(「上」の神田神社が分社と一般的にされています)のは、佐々木源氏系真野氏が真野荘に入封してから100年後くらいに起きています。なんらかの影響が地域であったのかもしれません。

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少し前置きが長くなりました。(もう少しだけ前置きが続きます)

1518年に真野城(城主:真野信重)を落とした、浅井長政祖父の浅井亮政(1491年~1542年)は、佐々木源氏系の北近江守護「京極氏」が支配する地域の国人(有力者)でした。

「京極氏」は宇多源氏系佐々木氏の一族で、足利将軍家が強力な力を持ち始めた佐々木氏を分散させる目的もあり、応仁の乱前後(六角氏が西軍、京極氏が東軍)から台頭し、本家である「佐々木源氏・六角氏」を上回る威勢を近江国で振るっていました。

しかし、1470年~1505年にかけて家督争いが生じ、ようやく京極高清がこれを治めました。こうした期間中も佐々木氏本家の「六角氏」とは抗争状態が続いていました。

佐々木源氏本家の「六角氏」も家内でいざこざが続き、足利将軍家から目を付けられ、六角征伐の軍が編成され将軍自ら兵を出した(1487年と1491年の2度)こともありましたが、近江国蒲生郡にてゲリラ戦をするなどしてこれを凌ぎ、近江国内では徐々に六角氏が支配地域を広げていきました。
その六角征伐で功績があったのが、六角家臣である近江国守護代の伊庭氏(宇多源氏佐々木系)です。六角氏は領国支配で伊庭氏の力に頼る部分が多くなる反面、伊庭氏との関係は悪化し対立が何度もありました。

1510年頃から、六角氏と伊庭氏との関係は将軍後見を巡りさらに悪化して、ついに伊庭貞隆は1514年頃から京極氏傘下の浅井亮政の支援を受けて、本格的に六角氏に反旗を翻し、伊庭氏による六角氏の内紛は1520年まで続きました。

このあと再び1523年、京極氏において後継争いが生じ、結果的に浅井亮政らによって、京極高清は北近江から追放されることになりました。
この後、下克上の風潮の中、浅井亮政は北近江を実効支配することとなり、これに対して京極氏は六角氏と和睦し浅井家に敵対することになります。

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以上のような状況の中で真野城は浅井家から攻められました。
なぜ真野城は攻められたのでしょうか?

歴史書には1518年当時、京極氏ではなく「浅井亮政」によって真野城が攻略されたと書かれていることから、京極氏による命令ではなく、どちらかというと浅井氏が主体的に行動したと考えていいと思います。

理由としてはいくつか考えられますが、

①六角氏内紛(1514年~1520年 伊庭貞隆の乱)では、伊庭氏に対し浅井亮政が支援をしたということなので、この伊庭氏支援の一環として、もしくは乱に乗じて京極氏を牽制してきた六角氏と関係が深い真野氏を浅井亮政が攻めた。

②真野城の戦いの5年後(1523年)に起きた、京極氏内部の跡目争いの芽が既にあり、北近江の国人(有力者)間の権力争いにおいて、自らの影響力を高めるために真野氏を攻めた。

と考えます。


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真野城の戦い自体はどのようなものだったのでしょうか。

真野土佐守信重の勢力は、青蓮院管轄下の真野荘(沢、浜、中村、北村)に限定されていたはずで、一部普門荘や伊香立南荘、堅田に住む親戚縁者からの増援があったかもしれませんが、当時の真野荘住民が五、六百人前後だったと想定されることから総動員兵力は百人~三百人(大半は普段 農業従事)だったと考えられます。

対して浅井氏側は、百戦錬磨の浅井亮政が精鋭 数百人の兵を率いてきたと思います。
京極氏の兵力と合わせて最大一千人程度は動員可能だったと思われ、真野氏(真野地域)は前後に戦を経験しておらず戦馴れしていなかったこともあって、比較的短期間で敗れたと思われます。

真野氏勢力圏(1518年)


戦いに敗れた真野氏は、野に下ったとのことです。
しかし、それから約50年後に再び真野氏が信長と戦ったとの記録があります。
そうしたことから、この50年間は浅井氏の支配下(影響下)に置かれた真野地域において、いったんは下野した真野氏が復権したと思います。

次は1570年の真野城の戦いを取り上げます。


大津市議会議員 藤井哲也拝






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