大津シビックプライド・ウォーキング2日目(1)

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本日は終戦(敗戦)70年目の日です。
政治の暴走により平和秩序が崩れるようなことがあってはなりません。
また先の大戦の要因の一つに、農村地帯の貧困化があり、多くの若者が失業状態にあったことも忘れてはなりません。外交及び内政がうまくまわるように一地方政治家ですが肝に免じて活動に励みたいと思います。


大津市民が大津に誇りを持てる空間、時間を探す「大津シビックプライド・ウォーキング」。
観光振興が目的ではなく、あくまで大津市民自身が大津を自慢できることが重要という点でのブランディングが目的です。

2日目は坂本地域と仰木地域の一部を回りました。
朝の10時半に比叡山坂本駅に到着。そこからいったん湖岸沿いに足を向け、明智光秀が城主を務めた「坂本城」の跡地を見に行こうと思いました。

坂本駅1

若き日の寂澄

穴太衆石積み札

坂本城へ1

坂本城へ2

ご存知の方も多い通り、比叡山坂本は比叡山延暦寺の門前町として栄えました。
その開祖は最澄です。しかし駅前の表札には「寂澄」と記載されています。
町全体に「石積み」が多くみられるのは、すぐ近くの渡来人系の穴太衆が住んでいた影響が強いからです。もともと滋賀湖西地域は、石の文化が古代からありました。これは硬質の石材が採掘できたことによります。一説には湖西に渡来系の豪族が多く住み、そして大津宮がここに移されたのも鉄鉱石をはじめとして堅い石が採れたことにあると説もあります。

いずれにせよ、坂本城址へ向かいます。
坂本城本丸跡は、国道161沿いのキーエンスという企業の敷地内にあります。

坂本城本丸跡

そこからさらに少し南下したところに「坂本城址公園」があります。

【坂本城】
琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置する。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから、天然の要害を具えた地であった。
比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世において頻繁に利用され、比叡山の物資輸送のために港町として、坂本は交通の要所として繁栄していた。
1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。
宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記している。
(wikipediaより引用)


残念ながら今はほとんど何も残っていません。
が戦国時代当時、この場所を拠点に京都に隣接する志賀に善政を敷いていたからこそ、歴史的には悪者になりがちな明智光秀が今なお、此の地で愛されているのだと思います。

坂本城址

坂本城址マップ

明智光秀像

坂本城水辺


それにしても明智光秀は、こんな感じだったんでしょうか?
大津市が市民協働で行ったパワーアップ事業で像が建てられたそうです。


※2日目(2)へ続く。


大津市議会議員 藤井哲也拝





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