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11月通常会議が開会しました。



 昨日(11月26日)、大津市議会11月通常会議が開会しました。12月21日までの間、提出された議案審議や一般質問、委員会での所管事務調査を行います。今議会においても、初当選以来31回連続となる一般質問を行います。
 半月ほど書き進めてきた「真野シリーズ」の記事も一旦休み、また時期を見はからって続けていきたいと思います。




  議会初日即決議案として、「教育委員再任議案」や「富士見市民温水プール指定管理契約議案」などを審議しました。特に10月1日から本日まで議会議決を経ずに法的根拠を欠いたまま運営されてきた富士見市民プール案件はコンプライアンス上、大変な問題だと考えています。

 この問題については、10/1に富士見市民温水プールが供用開始されたにも拘わらず、施設の指定管理者としての議決が得られていなかったというものです。
 10/15に総務課が契約していないことに気付き、10/25に市民スポーツ・国体推進課がお昼時間に市民部長に報告。同日、午後に総務課が市長に報告。総務課から遅れること1日、部署長である市民部長が10/26に市長に報告。その後、市長が説明を求め10/30に市民スポーツ・国体推進課が市長に説明。11/6に顧問弁護士に相談し対応を協議。
 11/9になって漸く市議会議長に報告。問題発覚から議長への報告まで25日間を要していることは議会軽視も甚だしいと思いますが、それ以上に問題なのは問題発覚から市長に伝わったのが10日間かかっていることです。組織として問題があれば、すぐにトップへ連絡すべきだと思うのですが、それまでに10日間も掛かっているのは危機管理体制としても考えられないことです。
 さらに所管部署の長である市民部長は問題を知った翌日に市長へ説明していますが、その前に総務課から市長へは説明がなされており後手後手に回っています。そもそも市民部長が当該事案を知ったのは発覚から10日後であり、いかに問題の蚊帳の外に置かれていたのか(部下から信頼されていないか?)が推測できるような気がしています。
 
 また単なる担当職員によるポカミスだとしても、問題が明らかになった後の対応が本当に酷いと感じています。許認可権限は、指定管理者でなければ扱えないのにも拘わらず、この間、プール使用の許可を大津市直営ではなく、指定管理者でもない人がやってきました。本来であれば、問題に気付いた直後から、市職員を常駐させてプール使用許可業務を行うべきでした。これさえも怠り、違法状態を黙認していたのは、部長はもちろん、市長・越直美も担当課職員にも、コンプライアンス意識(法令順守意識)の欠如という点で問題があると考えています。仮に市長は弁護士資格を有しているのであれば、問題に気付いた時点で、市職員を富士見市民温水プールに配置して、法的根拠を整えるべきでした。気付いていたのに、それをしなかったのは、極めて悪質であると考えています。
 そうした事すべて、生活産業常任委員会の場で質疑・意見し、行政には猛省を求めて、議案には賛成しました。

 当面の日程としては、明日(水曜日)が一般質問の事前通告期限なので、今日は寝食を忘れて質問作りに励みたいと思います。



【11月通常会議スケジュール予定】

11月26日 本会議(開会・議案提出)
11月28日 一般質問事前通告期限
12月4~7日 本会議(一般質問)
12月11日 予算常任委員会 各分科会
12月13日 各常任委員会
12月17日 予算常任委員会 全体会
12月19日 特別委員会
12月21日 本会議(採決・閉会)



フジイテツヤ



河内神社(真野大野)について



 大津市真野大野に「河内神社」という、いかにも村の社の立派な風格を備えた神社があります。
 真野には、歴史が古い上下の神田神社いずれも、端午の節句(こどもの日)にお御輿行事がありませんが、真野で唯一、お御輿を担ぐのが大野の河内神社です。








 滋賀県神社庁による「河内神社」の説明では、『明細書によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると桓武天皇延暦年間、藤原百川が龍華荘を領し居を有したが、真野に座す神田神社を崇敬し参拝の途次、領内大野の土地が、高燥風景絶佳であるのを賛美し、河内の国の地形に似ているとして氏の神牧岡の神を勧請一宇を建立したのが当社の創立とされている。明治九年村社に加列。 一月六日当家に於て、藁に稲穂と樒を挿したものを作り、農家はこれを田の水口に立てて豊穣を祈る「花葛」の行事がある。』とあります。

 藤原式家(宇合が祖。平城太政天皇の変=薬子の乱までは政権中枢。その後、藤原北家=摂関家が台頭する。)の宇合の八男にあたる、藤原百川(ふじわらのももかわ)が、伊香立龍華荘を知行地として持ち住んでいた時に、真野の神田神社を参拝した際に、大野の地を気に入り、河内神社を創建したということです。

 藤原百川は、兄の良嗣とともに天武天皇系から天智天皇系への転換を図り、のちの桓武天皇擁立に大きく貢献した人物で、娘の藤原旅子(ふじわらのたびこ)は785年に桓武天皇の後宮に入り後の淳和天皇を生んでいます。ちなみに旅子は死に際して、「吾が出生の地比良南麓に梛の大樹あり、その下に葬るべし」と遺し、故郷である龍華荘に葬られたそうで、その場所には現在、還来神社(祭神は藤原旅子霊)となっています。

 ここで疑問なのが、「神田神社」に藤原百川が参拝しとありますが、この時は未だ「神田神社」はなかったであろうということです。つまり、「下の神田神社」ができたのは810年とされており、そこから「上の神田神社」が分かれたのが932年とされているため、藤原百川(732年~779年)の生前中には、上下どちらの神田神社もなかったことになります。しかも延暦年間(782年~806年)には、すでに藤原百川はこの世にはいません。
 
 辻褄をあわせようと考えるならば、真野臣が間野大明神を祀って建てた一棟(ここでは仮に「真野神社」と呼びます)を藤原百川は参拝していたのではないかと考えられます。これを「真野神社」であった場所に「元神田神社」から祭神が勧請されて改めて創建された「(上の)神田神社」という名称の方が一般的になってから、後世の人が「百川が参拝した」ということを伝えてきたのではないかと思います。
 また、百川がこの場所を賛美したのは正しいにしても、河内神社を創建したのは、百川ではなく、もしかしたら藤原旅子か藤原式家ではないかと考えます。旅子が死に際して生まれ故郷の伊香立に戻ることを選んだように、旅子のこの地域への愛着はかなり高かったと思うのです。(どちらにしても細かすぎてどうでもいい話かも知れませんが。)


 神田神社が真野臣を媒介として、真野普門、真野澤・中村・北村と関連が深いとすれば、上記逸話からも分かるように、真野大野、家田、佐川及び真野谷口は、伊香立とつながりが深い地域です。

 「むらのきおくー真野の歴史ー」には、家田の地名由来に関して次のような記載があります。

 昔、家田は南庄に属していた。南庄の東、今の家田のあたりは田畑があっただけである。南庄からこのあたりまで農耕に来るのが遠いため、田のために家をつくろう、すなわち田の家、つまり家田の地名が起こったのである。だから家田の神は南庄の神と同じで、源融を祀っている。融神社がそれである。源融は近江の国司で、特にこの地を愛され、よい政治をされたという。村人は融侯によく従い農に励んだという。はじめに移り住んだのは八軒で、今は倍の十八軒で小さな部落である、つい最近まで南庄の山野の草刈りは許されていたし、今も南庄の祭りにはおこわをいただいて食べるという風習が残っている。


 藤原式家(百川や旅子)、その後、源融(源氏物語の主人公「光源氏」のモデル。嵯峨天皇の子。842年に近江守。)の知行地であった伊香立の荘の一部として、真野大野や家田、佐川があり、谷口も考えられていたのだと思います。
 源融の父である嵯峨天皇の時代(809-823)に、新撰姓氏録が作られ、(下の)神田神社も創建されるなど、「真野」は大変、この天皇とも中世 縁があったようにも思われます。


 真野大野の「河内神社」の祭神は、天児屋根命、比売神、斎主命、建甕槌命の4柱です。
 天児屋根命は中臣氏(藤原氏)の祖神とされる人物で、他の3柱もいずれも藤原氏系の人物及び象徴とされています。そのように見ると、大野の「河内神社」は、バリバリの藤原氏の神社であると言えます。
 現在、東大阪市河内国一の宮の「枚岡神社」は中臣氏の氏神とされており、同様に天児屋根命、比売神(比売御神)、斎主命(経津主命)、建甕槌命を祀っています。ちなみに中臣氏が藤原氏となってから創建した春日大社には、この枚岡神社から天児屋根命と比売御神の分霊が勧請されています。
 おそらくこの「枚岡神社」近くの河内の風景と、真野大野の風景が似ており、藤原百川(若しくは旅子、藤原式家)は、先祖の中臣氏の故郷への郷愁もあって、大野河内神社を創建したのではないでしょうか。


 この神社のお御輿は江戸時代前期のものと推定され、2014年6月に大野自治会から、お御輿が古く担ぐ時も重たいので、現代風のお御輿に造り替えたいという相談があった際に、かねてから文化財としての価値があるのではないかと思っていたことから、市の文化財保護課の学芸員の方に来てもらい見てもらったところ、やはり大変価値があるものだということになり、お御輿を造り替えるのではなく、現にあるお御輿を修繕して今後も使っていくということになりました。この調査の際に、神社や倉庫にあった江戸期の書類も多く発見され、私自身は見ていませんが、大津市文化財保護課には調査結果が残っているものと思います。



 近年、大野に住む人も若者を中心に減少傾向にあり、最近では本御輿だけしか5月5日には使われません。少し前までは子供御輿も動いていたのですが。
 文化的価値の高いお御輿行事も、やはり伝統行事と相まって残っていくものとも言え、その伝統文化を守っていくためには、人口減少対策が必要だと思います。もしくは、時代の変化と合わせて他の地域でも一般的になってきたお御輿を軽トラックに積んだり、台車に乗せて動かすというのもありかもしれませんが、やはり風情は全然違ったものじゃないかなと思う訳です。真野で唯一残っているお御輿巡行を、これからも引き継いでいくために、真野一帯の活性化は欠かせないと考えています。


フジイテツヤ


 

 



MANOART



 新たな価値を創造するためには、歴史を知ることが欠かせないと私は考えています。まちおこし、地域活性化に活用されるのは、その地域の歴史や文化がほとんどを占めていると思います。
 例えば、彦根市のマスコットキャラクター「ひこにゃん」は、第2代 彦根藩主の井伊直孝の逸話に因んでいますし、草津市はクリスマスブーツ発祥の地として、又は東海道五十三次の草津宿をベースに町おこしを、長浜市でも石田三成、黒田官兵衛などの大河ドラマに取り上げられてきた歴史上の人物を活用しています。その地域の歴史文化、逸話や隠れたストーリーを拾い上げ、デザイン思考で魅力を創出し磨き上げ、マネタイズ(収益事業化していく)いくことが重要だと考えています。

 「真野」には古来からの歴史文化や逸話はたくさんあると思うのですが、それが現時点ではうまく収益事業化できていないと考えています。議員となってから、特に議員2期目は、どうしたら「真野地域」の価値を高めることができるのか、収益事業化して地域を活性化できないかと考えてきました。地域の皆様から、「ふれあい鯉のぼり祭り」や、「新そば 収穫祭」などのイベント企画運営の役目を与えて頂いたり、様々な歴史文化を学ぶ機会を得てきました。今後はいよいよ、そうした隠れた価値を磨き上げ、価値創造につなげていく段階にあると考えています。

 いまの議員任期は来年4月30日までとなっています。残すところ5月余り。できれば、その5か月余りの間に、新たな価値創造についてスタートアップをできないかと思っています。


 *  *  *

 「真野」は景勝地として名を馳せてきました。
 私自身が勝手に選んだ「真野八景」を紹介します。


【1】真野浜の有明け





【2】宮池のあかつき



【3】普門神田神社からの近江富士



【4】夕暮の鯉のぼり




【5】雪化粧の真野




【6】夜の琵琶湖大橋



【7】植え田に映る比良比叡



【8】堅田駅西口広場(2018年4月供用開始予定)




フジイテツヤ




2つの神田神社(追記②)



 次は「上の神田神社」です。
 上の神田神社(普門の神田神社)についても以前記事で書いた内容で大凡のことは述べていますが、同敷地に建つ光明寺のことや、真野普門のことも含めて若干の追記をしたいと思います。
 

 まずは「むらのきろく」からの転載です。

〇上の神田神社
 真野の地区に二つの神田神社がありますので、普門の神田神社を上の神田神社といい沢にあるのを下の神田神社とよんでいます。上の神田神社は、旧国宝で現在は重要建造物という重文に指定されています。再建されたのは建徳元年でそれが今も残っています。本殿は室町風の流れ造りで簡にして要、なかなか立派なものです。祭神は_(空白)_、天足彦国押人命、彦国葺命の三柱です。口伝によると、承平二年、932年、平将門が“うんじゃく”姫の病気快ゆを祈り、翌年、娘の姫の病気がなおり、そのお礼として承平三年、本殿を建立とあります。平将門が乱を起こしますのが天慶二年。将門の乱に際し、伊香立竜華関を閉じるという正史の記事があるとのことで、普門のこの地から竜華まで通じています。平将門の一門の関係者がこの地にいたため、何の関係もない関所を閉めたのだと推測できます。ちなみに竜華の関は近江の古関三関の一つでもありました。

〇こんぴら祭
 毎年四月十日にこんぴら祭があります。この日には普門全部がこの山に登り祝います。こんぴら山は普門の守護山として昔から崇められているためでありましょう。昭和三十九年の四月十日は、豪恕大僧正がこんぴら大明神を開いてから百五十年になるので、社を新しく建て直して盛大に行事が行われました。

〇六体地蔵
 普門には地蔵さんが大変多いです。昔、寺が多かったせいでしょうか。地蔵信仰というのは平安時代から盛んになっていくと聞きましたが、村の大事なところ、大切な道にあります。こんぴら山に通じる道に六体地蔵尊が安置してあります。この地蔵は村を災いから救うとして、今も花や菓子を供え手をあわしています。


 気になったのは、神田神社の祭神で「_(空白)_」があることです。本来ここには、「鳥務大肆忍勝」が入るはずです。※ちなみに単なるミスだと思いますが、「天足彦国押人命」は上の神田神社の祭神には含まれておらず、下の神田神社の祭神です。上の神田神社の祭神は「素盞鳴命(スサノオノミコト)」です。
 私自身も2015年に記事を書いた時には誤解していたのですが、「鳥務大肆忍勝」は一人の人物ではなく、「鳥さん」と「忍勝さん」の二人なのです。この「むらのきろく」を編集した横山幸一郎先生はもちろんこの事は御存知だったと思うので、敢えて「_(空白)_」で祭神の名前を書かないように生徒に指導したのではないかと考えられます。

 また、現在私たちが「曼荼羅山」と呼んでいる山のことを地元の方は「こんぴら山」と呼んでいます。これは山頂近くに境外摂社「金刀比羅宮」があるからで、江戸時代の水不足の際に水の神様であった金毘羅大権現を勧請を受けて造られたと思われます。
 ちなみに、真野臣を与えられた鳥さん、務大肆忍勝さんは、普門山に「素盞鳴命」を間野大明神として鎮座したとされています。この「普門山」は現在の、「上の神田神社」があった場所だと比定され、「曼荼羅山(こんぴら山)」とは別です。別ではありますが、かねてから真野普門の方は先祖代々、曼荼羅山を崇めていたことが分かります。現在も曼荼羅山は真野普門の水利組合が保有されている山となっています。


 また、この「上の神田神社」の隣接地に、「普門山光明寺」というお寺が建っています。
 そもそも、織田信長の比叡山焼き討ちの際、比叡山三千坊も全て焼き払いましたが(聖衆来迎寺など一部例外あり)、「下の神田神社」を含め、真野地域一帯のお寺や神社もほとんどが焼失しました。
 そうした中、例外と言えるのが、この「上の神田神社」ではないかと思います。1370年に再建された「上の神田神社」は、現在も健在で国の重要文化財に指定もされています。織田信長の焼討ちから難を逃れています。なぜ、「上の神田神社」は焼討ち対象にならなかった、もしくは焼討ちはされなかったのでしょうか?

 そのカギを今から2年半前の2016年4月17日に約20年ぶりに行われた「普門山光明寺十一面観音菩薩中開帳」(法要導師:前阪良憲住職)に参加者に配られた縁起に見る事ができます。



 「縁起」を見ると、普門山光明寺に安置されているのは、聖徳太子が厄除け諸難消滅のために彫刻した十一面観世音菩薩で、もともとは比叡山横川谷にあったものが、信長の比叡山焼討ちの際に、兵火の難に遭いそうになったところ、此の地に降臨して光明赫赫と立ったということです。そのことから此の地に草庵を造成し、普門山慈眼院光明寺と名付けたということです。

 つまり、比叡山焼討ちの後に光明寺が建立されており、焼討ち時には、此の場所には「上の神田神社」しかなかったのではないでしょうか。光明寺の創建は1572年とされています。その以前に平将門が建てたのは神社の本殿の方であり、お寺ではなかったのは大凡推測できます。
 そのため、神仏習合が進められてきた中でも土神として崇められていた間野大明神しか祀っていなかったと考えられる「上の神田神社」は難を逃れたと思われます。
 
 なぜ「下の神田神社」から、「上の神田神社」が、文亀年中(1501~1503年)、祭典の旧例に反し論争止まず氏子の分離にいたったのかは分かりませんが、これは以前、記事で書いたように、私としては清和源氏系佐々木一族が近江国での地盤を固めていく過程で、古代豪族を同化吸収しようとした動きと関連があると考えています。
 私は真野臣発祥の地である「普門山」に、「下の神田神社」では祀っていない、初代真野臣の「和邇部臣鳥」と「務大肆忍勝」を敢えて祭神として祀ったのには意味があると考えています。

 それにしても、普門山光明寺の十一面観世音菩薩が、本当に聖徳太子が彫刻したものであるならば、これもまた重要文化財級のものではないかと思います。


フジイテツヤ





 







2つの神田神社(追記①)



 以前、「大津市真野について(4)~2つの神田神社~」という記事を書きました。この記事に追記する形で、2つ記事を書きたいと思います。

 真野には2つの「神田神社」があります。一般的に「普門の神田神社(又は、上の神田神社)」と呼ばれる社と、「神田神社(又は、下の神田神社)」です。前記事で「下の神田神社」のかつての立地場所が、琵琶湖の波打ち際の下河原と呼ばれる地にあったということを書きました。そのことから、まずは「下の神田神社」について書きたいと思います。

 何回か紹介させて頂いている「むらのきろく」では、下の神田神社に関して次のように述べられています。

〇神田神社
 嵯峨天皇弘仁二年(811年)に藤の木に鎮座し、祭神は真野の彦土神 彦国葺命である。現真野家の先祖に当る。神田神社は古くは、ミトシロのカミのヤシロとよび、伊勢内宮の御供田に属していた。延喜式神名帳に近江国滋賀郡八座の中に神田神社の名が記され、住吉真野臣の先祖を祭神とするとある。真野臣は天足彦国押人命の孫、彦国葺命の子孫である。その系統の大矢田宿祢が神功皇后の三韓征伐に従って新羅に渡り征伐後その地に残り鎮守将軍となる。新羅王猶榻の女と結婚して二人の男をもうけ、兄を佐久命、弟を武義命という。持統天皇より真野臣の姓をうける。古事記、日本書紀にも同様の記載がある。隣郷に小野族がいたがともに大和の春日臣の系統である。この真野は墾田を意味している。神田の社記は前記の通りであるが、真野氏の中の長者が神主をしておりこの仲間をモトロ仲間という。奈良時代は興福寺関係で後宇多天皇弘安二年(注:1279年)に鎌倉将軍惟康親王の寄進で別当神宮寺と護摩堂を創立し、天台宗となる。伏見天皇永仁年間に神司真野氏は近江守護 佐々木六角に属し神殿を改修し、神田を寄進。織田信長の延暦寺焼討のとき焼失する。明暦2年(1656年)新しい社殿を造営する。

〇十七夜 サンヤレ祭
 一月十七日の夜あるから十七夜。またそのときサンヤレ(幸あれ)とさけぶからサンヤレ祭。両方いう。昔は“こうさい”祭といっている。もとは沢の真野一族の行っていた行事であったが明治維新後は沢、北村、中村の組全体の行事となってきた。この行事は中、沢、北村の男子が一本ずつ松明を点じて神社に参拝する行事である。藤の木から現在の地へ神田神社を移転したときの模様を再現しているのである。各組の男子は藤の木に集合する。集合の順序は沢が先頭で中村、北村がこれに続く。全部そろったとき「サンヤレ、サンヤレ」とおどるのである。この夜は特に寒さが厳しくあるが、行事に従う若者は負けていない。もともと神田神社の神、彦国葺命は荒行を好まれる神で勇ましいことを喜ばれる。万灯のように松明をかざして行列は続く。昔はもっと盛大であったらしいが、いまは静かな行列になっている。この松明の火は夏やせに効くというので火にあたる人が多い。

〇神宮寺の鐘
 正応三年(注:1290年)矢田部宗次と銘のある古鐘は神田神社の神宮寺の鐘である。室町時代の戦国の世、真野氏は佐々木六角に属し戦った。この鐘は対岸兵主の兵主神社に一時納められていた。明治になって浜出身の三宮式部長がとり戻され、いま浜の正源寺にある。



 下の神田神社が創建されたのは811年ということです。時代背景を考えると、壬申の乱から140年近く経っており、平安遷都から17年。平城太政天皇が弟の嵯峨天皇に対して平城京への遷都を指示し嵯峨天皇がこれを拒否したから発した変事(薬子の変とも)が810年に起きた翌年です。815年に嵯峨天皇が命じて古代氏族名鑑「新撰姓氏録」を編纂する直前です。

 今年は維新150年の節目の年ですが、西郷隆盛はどのような人物であったのか諸説あったりするなど不正確です。自分自身の150年前の先祖がどのような人だったかを知っている人はあまりいないのではないでしょうか。私自身のことでいえば墓石に「金吹屋」という屋号が彫ってあり、そのことから江戸時代は灰吹きにより金を鋳造していた家系ということが分かるだけです。
 西暦800年頃、寿命も今とは比べ物にならないくらい短く、壬申の乱後、何世代も経っている状況では、すでに自分自身の出自も曖昧になりつつあったのではないかとも思います。嵯峨天皇が古代氏族(古代豪族に対する改賜姓も含めて)のルーツを明らかにして、平安の世を築くための材料にしたかったのかもしれません。同じく、真野臣自身もアイデンティティ、ルーツを明らかにしようと改めて「彦国葺命」を祭神として、真野の入江に接した自身の領地「ミトシロ(神田)」の地に、神社を建てたのかもしれません。
 私が気になったのは、「神田神社は古くは、ミトシロのカミのヤシロとよび、伊勢内宮の御供田に属していた。」という部分です。確かに伊勢神宮は当時においても最高権威といえる神社格と言えますが、伊勢内宮に供えた神田に神社を建てたことに、天皇家との結びつきを明確にしたいという想いを感じ取る事ができます。
 確かに「上の神田神社」がある元々の真野臣の発祥地である普門山と、現在の「下の神田神社」、そして元々あったと考えられる下河原の「下の神田神社」を直線で結び、その直接をまっすぐと伸ばせば、(偶然にも?)伊勢内宮にあたります。







 また、「下の神田神社」が毎年1月17日に行っている、「サンヤレ祭」は、非常に荘厳な雰囲気の中で行われます。私もほぼ毎年、見に行くようにしています。






 神田神社は、延喜式神名帳(927年に完成)で近江国滋賀郡(現在の瀬田地域を除く大津市の大部分)に記載された8神社のうちの1つで、当時からかなり格式が高かったと言えます。景勝地の真野入江近くにあり、日本海方面に向かう人は必ず神田神社を見ながら歩いたということから立地的に知名度も高かったのかもしれません。

 ちなみに滋賀郡にあった8座は、「那波加神社(苗鹿)」、「倭神社(坂本又は滋賀里)」、「石坐神社(西の庄)」、「神田神社(真野)」、「小野神社二座(天皇神社、小野神社、小野道風神社のうち2社)」、「日吉大社(坂本)」、「小椋神社(仰木)」です。

 下の神田神社境内にある「神宮寺」のことも書きたいのですが、また機会があればとしたいと思います。


フジイテツヤ



 


 

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