2つの神田神社(追記②)

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 次は「上の神田神社」です。
 上の神田神社(普門の神田神社)についても以前記事で書いた内容で大凡のことは述べていますが、同敷地に建つ光明寺のことや、真野普門のことも含めて若干の追記をしたいと思います。
 

 まずは「むらのきろく」からの転載です。

〇上の神田神社
 真野の地区に二つの神田神社がありますので、普門の神田神社を上の神田神社といい沢にあるのを下の神田神社とよんでいます。上の神田神社は、旧国宝で現在は重要建造物という重文に指定されています。再建されたのは建徳元年でそれが今も残っています。本殿は室町風の流れ造りで簡にして要、なかなか立派なものです。祭神は_(空白)_、天足彦国押人命、彦国葺命の三柱です。口伝によると、承平二年、932年、平将門が“うんじゃく”姫の病気快ゆを祈り、翌年、娘の姫の病気がなおり、そのお礼として承平三年、本殿を建立とあります。平将門が乱を起こしますのが天慶二年。将門の乱に際し、伊香立竜華関を閉じるという正史の記事があるとのことで、普門のこの地から竜華まで通じています。平将門の一門の関係者がこの地にいたため、何の関係もない関所を閉めたのだと推測できます。ちなみに竜華の関は近江の古関三関の一つでもありました。

〇こんぴら祭
 毎年四月十日にこんぴら祭があります。この日には普門全部がこの山に登り祝います。こんぴら山は普門の守護山として昔から崇められているためでありましょう。昭和三十九年の四月十日は、豪恕大僧正がこんぴら大明神を開いてから百五十年になるので、社を新しく建て直して盛大に行事が行われました。

〇六体地蔵
 普門には地蔵さんが大変多いです。昔、寺が多かったせいでしょうか。地蔵信仰というのは平安時代から盛んになっていくと聞きましたが、村の大事なところ、大切な道にあります。こんぴら山に通じる道に六体地蔵尊が安置してあります。この地蔵は村を災いから救うとして、今も花や菓子を供え手をあわしています。


 気になったのは、神田神社の祭神で「_(空白)_」があることです。本来ここには、「鳥務大肆忍勝」が入るはずです。※ちなみに単なるミスだと思いますが、「天足彦国押人命」は上の神田神社の祭神には含まれておらず、下の神田神社の祭神です。上の神田神社の祭神は「素盞鳴命(スサノオノミコト)」です。
 私自身も2015年に記事を書いた時には誤解していたのですが、「鳥務大肆忍勝」は一人の人物ではなく、「鳥さん」と「忍勝さん」の二人なのです。この「むらのきろく」を編集した横山幸一郎先生はもちろんこの事は御存知だったと思うので、敢えて「_(空白)_」で祭神の名前を書かないように生徒に指導したのではないかと考えられます。

 また、現在私たちが「曼荼羅山」と呼んでいる山のことを地元の方は「こんぴら山」と呼んでいます。これは山頂近くに境外摂社「金刀比羅宮」があるからで、江戸時代の水不足の際に水の神様であった金毘羅大権現を勧請を受けて造られたと思われます。
 ちなみに、真野臣を与えられた鳥さん、務大肆忍勝さんは、普門山に「素盞鳴命」を間野大明神として鎮座したとされています。この「普門山」は現在の、「上の神田神社」があった場所だと比定され、「曼荼羅山(こんぴら山)」とは別です。別ではありますが、かねてから真野普門の方は先祖代々、曼荼羅山を崇めていたことが分かります。現在も曼荼羅山は真野普門の水利組合が保有されている山となっています。


 また、この「上の神田神社」の隣接地に、「普門山光明寺」というお寺が建っています。
 そもそも、織田信長の比叡山焼き討ちの際、比叡山三千坊も全て焼き払いましたが(聖衆来迎寺など一部例外あり)、「下の神田神社」を含め、真野地域一帯のお寺や神社もほとんどが焼失しました。
 そうした中、例外と言えるのが、この「上の神田神社」ではないかと思います。1370年に再建された「上の神田神社」は、現在も健在で国の重要文化財に指定もされています。織田信長の焼討ちから難を逃れています。なぜ、「上の神田神社」は焼討ち対象にならなかった、もしくは焼討ちはされなかったのでしょうか?

 そのカギを今から2年半前の2016年4月17日に約20年ぶりに行われた「普門山光明寺十一面観音菩薩中開帳」(法要導師:前阪良憲住職)に参加者に配られた縁起に見る事ができます。



 「縁起」を見ると、普門山光明寺に安置されているのは、聖徳太子が厄除け諸難消滅のために彫刻した十一面観世音菩薩で、もともとは比叡山横川谷にあったものが、信長の比叡山焼討ちの際に、兵火の難に遭いそうになったところ、此の地に降臨して光明赫赫と立ったということです。そのことから此の地に草庵を造成し、普門山慈眼院光明寺と名付けたということです。

 つまり、比叡山焼討ちの後に光明寺が建立されており、焼討ち時には、此の場所には「上の神田神社」しかなかったのではないでしょうか。光明寺の創建は1572年とされています。その以前に平将門が建てたのは神社の本殿の方であり、お寺ではなかったのは大凡推測できます。
 そのため、神仏習合が進められてきた中でも土神として崇められていた間野大明神しか祀っていなかったと考えられる「上の神田神社」は難を逃れたと思われます。
 
 なぜ「下の神田神社」から、「上の神田神社」が、文亀年中(1501~1503年)、祭典の旧例に反し論争止まず氏子の分離にいたったのかは分かりませんが、これは以前、記事で書いたように、私としては清和源氏系佐々木一族が近江国での地盤を固めていく過程で、古代豪族を同化吸収しようとした動きと関連があると考えています。
 私は真野臣発祥の地である「普門山」に、「下の神田神社」では祀っていない、初代真野臣の「和邇部臣鳥」と「務大肆忍勝」を敢えて祭神として祀ったのには意味があると考えています。

 それにしても、普門山光明寺の十一面観世音菩薩が、本当に聖徳太子が彫刻したものであるならば、これもまた重要文化財級のものではないかと思います。


フジイテツヤ





 







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