「真野」という地名の由来(2)

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 大津市北部にある「真野」という地名の由来について。
 続いては、【「2」孝昭天皇(御真津日子訶恵志泥命)由来説】を考えたいと思います。


 この説は、以前記事にも書きましたが、国語学者で京都学派重鎮の吉田金彦氏(現 姫路獨協大学名誉教授)が、1984年5月27日 京都新聞「古代地名を歩くシリーズ」で書いたところに依ります。以下、当時の新聞記事からの転載です。

 琵琶湖大橋を渡って西へ歩くと、そこは真野町である。マノ、真野ー読んでも書いても、実によい名前だ。古代の有力な豪族和珥氏の氏族・真野氏が支配していた所だったから、ここが真野となったものだ。が、それも遡れば、ここの式内社、神田神社の摂社のご祭神が、御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)ということを考えると、マノ(真野)はミマツ(御真津)に因んでいる語であるらしい。マツ(真津)がマノ(真野)に言い換えられている。
 というのは、堅田が発達する以前は、この真野こそが水陸交通の要衝として栄えた土地だったからである。古代の真野は中央を流れる真野川が肥沃なデルタ地帯を形成し、水害の少ない湿田低地帯だったが、それが美称のマノ(真野)と言われるようになったのは、マツ(真津)という古名があったからだと推定される。それだけにここは、重要な渡し場だったのである。
 マノ(真野)は全国的に多い地名で、たいてい古い土地が多い。<中略>「真野」と書くので本当の原野だとか、人手の加わらない野とかに見る考えもあるが、マは美称でその土地の由緒のあることを伝え、その土地を良い土地として称える語、それがマノ(真野)なのである。<以下略>
 (京都新聞 昭和59年5月27日記事より)




※当該シリーズは単行本化「京都滋賀古代地名を歩く」もされています。志賀や穴太、堅田、高島などの地名由来も興味深いです。
 


 そもそもの話。
 第5代天皇・孝昭大王(御真津日子訶恵志泥命)は、欠史8代のうちにあり、系譜しか記紀に記載がなくその実在が疑われています。古事記が712年(壬申の乱で活躍した多氏後裔の太氏が編纂)、日本書紀が720年(天武天皇の子の舎人親王が撰者)に作られており、この時代には「御真津日子訶恵志泥命」(日本書紀では、観松彦香殖稲天皇)という名が一般化されていたと言えますが、いつの時代に「御真津・・・」という名前があったのかは不明です。

 しかし、前記事に書いたように、真野臣を与えられた「和珥部臣鳥」らの祖先で最も皇統に近かったのが、第5代の孝昭大王(御真津日子訶恵志泥命)だったわけで、順序から考えると、和珥部臣がこの地(マノ)に住む前から、この地は「眞野(村)」と呼ばれていたことから、「真津」から「真野」に言い換えられたという由来説は、スムーズではないように思われます。つまり、和珥部臣やその祖先である御真津日子訶恵志泥命は、地名とは関係ないのではないかと考えられます。

 また、和邇氏とゆかりが深い奈良県天理市和爾町の「和爾下神社」の祭神は、素盞鳴命、大己貴命、櫛稲田姫命の3柱(江戸時代は、天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、若宮難波根子武振熊命(難波宿禰)の4柱という記録あり)であり、「和邇坐赤坂比古神社」の祭神は、阿田賀田須命と市杵嶋比賣命の2柱で、いずれの神社でも素盞鳴命や天足彦国押人命、彦国葺命など和邇氏の祖は祀られているもの、御真津日子訶恵志泥命(孝昭大王)は含まれていません。
 古墳時代から飛鳥時代、奈良時代の当時、和邇氏系氏族における「御真津日子訶恵志泥命(孝昭大王)」の立ち位置というのは、素盞鳴命、天足彦国押人命や彦国葺命らに比べて、若干距離があったのではないかと考えられます。

 ただし、この「御真津日子訶恵志泥命」由来説も、必ずしも間違っているとも言い切れないので、次の由来説を考えていく中で、総合的に検証していこうと思います。



(真野の田園風景)



フジイテツヤ







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