「真野」という地名の由来(1)

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 大津市北部にある「真野」。
 私が11歳の時に引っ越してきてから、結婚後の数年間を除き30年近く住んでいます。


(まんだら山から真野、堅田、琵琶湖を望む)


 「シビック・プライド(civic pride)」は、自分が住む地域に愛着と誇りを持つことを言いますが、そのシビック・プライドを醸成し高めていくことが、まちの価値を高め、まちの活性化につながるという考えがあります。日本でいえば「京都」は当にシビックプライドが醸成され、それが町の活性化につながり、世界から観光客が訪れている代表例だと思います。

 自分が住む地域に愛着と誇りを持つために、私は市議会議員第2期目が始まってから、「真野」という地域を良く知ろうと歴史文化を学んできました。以前(2015年夏頃)に「真野シリーズ」を導入記事と合わせて11回連続で投稿しました。

 ・真野の歴史
 ・大津市真野について(1)~真野のシンボル~
 ・大津市真野について(2)~真野川~
 ・大津市真野について(3)~真野川②~
 ・大津市真野について(4)~2つの神田神社~
 ・大津市真野について(5)~真野の伝承~
 ・大津市真野について(6)~真野北~
 ・大津市真野について(7)~真野北②~
 ・大津市真野について(8)~戦国の真野①~
 ・大津市真野について(9)~戦国の真野②~
 ・大津市真野について(10)~戦国の真野③~


 少し間が空きましたが、この続きを加筆する形で、もう少し書いておきたいと思います。
 数年前に書いた記事であるにも拘わらず、当該記事を見て真野のことをより深く知ったという方に時々出会います。私自身の願いとしては、一連の記事を見て下さる方々にとって、シビックプライドが高まり、直接的・間接的に真野地域の活性化につながるのであれば幸いだと感じています。



 * * *

【「真野」という地名の由来】


 まず取り上げるのは、「真野」という地名の由来についてです。
 これについては諸説あり、大きくまとめると次の通りです。

「1」豪族・真野臣 由来説
「2」孝昭天皇(御真津日子訶恵志泥命)由来説
「3」景観 由来説 


 それぞれ自分なりの私見を交えながら検証をしたいと思います。


 最初は、「1」豪族・真野臣 由来説
 古代豪族に「真野 臣(まの・おみ)」がいました。この「真野 臣」にちなみ、その居住地である当地が「真野」と名付けられたのではないかという考え方です。

 初代「真野 臣」は、和珥部臣鳥 務大肆忍勝 です。
 西暦815年、嵯峨天皇の命によって編纂された古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」に、真野臣について記載された部分があります。


眞野臣
 天足彦国押人命三世孫彦國葺命之後也。男 大口納命。男 難波宿禰。男 大矢田宿禰。従氣長足姫皇尊[贈神功。]征伐新羅。凱旋之日。便留為鎮守将軍。干時娶彼國王猶榻之女。生二男。二男兄 佐久命。次 武義命。佐久命九世孫和珥部臣鳥。務大肆忍勝等。居住近江國志賀郡眞野村。庚寅年負眞野臣姓也。


藤井による現代訳
 第5代孝昭大王の皇子であった、天足彦国押人命(あめたらしひこ くにおしひとのみこと)の三世代目に当たる彦國葺命(ひこくにぶくのみこと)の後裔である。
 彦國葺命の子に大口納命、その子が難波宿禰、さらにその子が大矢田宿禰である。難波宿禰、大矢田宿禰は(高穴穂宮朝期に仲哀天皇妃であった)神功皇后の新羅遠征に従い、大矢田宿禰は凱旋の日に鎮守将軍となって現地に留まった。その時、新羅の国王である猶榻の娘を娶り、二人の男を生んだ。一人は兄の佐久命であり、もう一人は弟の武義命である。この佐久命の9世代目が「和珥部臣鳥(わにべおみ とり」や、「務大肆 忍勝(むたいし おしかつ)」などである。
 彼らは近江国志賀郡にある真野村に住んでいた。庚寅年(西暦690年)、真野臣の姓を与えられたのである。


 以上の記述から分かることは、真野臣が与えられる前に、「真野村」があったということです。真野村という地名が先にあって、その場所に住んだ「和珥部臣鳥」らに、姓・真野臣が与えられたという順序だと考えて問題ないと思います。

 周辺知識としては、壬申の乱(672年)で大海人皇子の舎人であり、湖東戦線で活躍した「和珥部臣君手(わにべのおみきみで)」が挙げられます。すでに渡来系名である「和邇氏」はその主流が倭言葉から生まれた「春日氏(大春日朝臣)」に移っておりましたが、和珥部臣に和邇の名前が残っています。
 和邇(丸邇)は製鉄技術を持っていたとされていますが、もともとは漁労民族と考えられており、仲哀天皇期から推古天皇の兄である敏達天皇の代まで継続的に妃(シャーマン・巫女)を嫁がせていました。しかし、当時の近代化により政祭一致(妃の占いで大王が政治を司る)の政治行政スタイルが古臭く感じられ、天智天武期には律令政治が主流になるにつれて、和邇氏本流は大春日朝臣や官僚を多く輩出した小野朝臣に分かれ、和邇氏から派生した和珥部臣は漁労技術を生かし大型河川で付近での採漁や水運を担っていたと考えられています。
 和珥部臣は、壬申の乱において君手が同族がいた尾張知多方面(愛知)や美濃(岐阜)で、大海人皇子(天武天皇)の兵力集めにも尽力しています。
 
 この和珥部臣君手の子(和珥部臣大石?)は近江国志賀郡司を務めていたとされていますが、君手が亡くなった際に、壬申の功臣であったとして官位を授けられています。
 「和珥部臣鳥」は、和珥部臣君手や大石とは同族であったものと思われますが、「鳥」の兄弟か息子と推定される「務大肆 忍勝」は、天武期(685年)にそれまでの冠位二十六階を改め、冠位四十八階が定められたが、その冠位の上から数えて31階目に位置する「務大肆」であり、「君手」が贈られた「直大壱(上から9階目)」と比べると、大きな格差があります。
 真野臣が「和珥部鳥」らに与えられた690年は、天武天皇が亡くなり4年後、その妃である持統天皇が即位した年になりますが、701年に制定される大宝律令に象徴されるようにそれまでの国づくりを改めようとしていた時期に当たります。地方豪族(和珥部など)を居住地域に土着させ(逆に言うと官僚による中央集権化を進める)る政策の一環で、その地域の名称を姓として与えたのではないかと私は思います。

 ちなみに志賀郡は和邇氏系氏族が全体的に管掌していたそうですが、6世紀以降、真野郷に和邇氏系氏族が集められ、それ以外の地(坂本以南)に渡来人(大伴氏、錦織村主など)を住まわせたとされています。
 真野郷という名称が近江大津宮(大津京)期に、すでに定着していたことを考慮すると、やはり、「真野」という地名は、真野臣が住む前に既に付いていた名称だと考えていいように思います。

 残り2つの由来説については、記事を改めて検証したいと思います。



フジイテツヤ













 

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