大津市真野について(10)~戦国の真野③~

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戦国の世がようやく幕を閉じる大阪城冬・夏の陣。
来年のNHK大河ドラマの主人公は真田幸村で注目も高まってきています。

大津市真野での戦いはこれまで取り上げた2回だけでしたが、戦国時代が幕を閉じる大阪の陣には、真野氏と関係が非常に深い人物がいました。今回その中の3人を取り上げます。


真野氏戦国期系譜案

★藤井私案PDFはこちら



【大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)】

別名小袖。近江国滋賀郡真野出身。(1545年前後?~1615年)
浅井家臣の大野定長(石清水八幡宮祀官家出身)と結婚し、1569年に長男の大野治長を生む。また1569年に誕生した浅井長政とお市の方(織田信長妹)の長女である茶々(淀殿)の乳母の1人となる。もう一人の乳母は浅井久政(浅井長政父)の孫にあたる饗庭局(あえばのつぼね)である。
茶々(淀殿)が豊臣秀吉の子・豊臣秀頼を生み、秀吉死後、正室・北政所(ねね)が高台寺に移った後は、子の大野三兄弟と共に豊臣家で権勢を振るった。
1615年6月、大阪城落城時に豊臣秀頼、淀殿、大野治長らと自害。


【大野治長(おおの・はるなが)】
京出身。(1569年~1615年)
大野定長と大蔵卿局の長男。弟に大野治房・治胤など。乳母兄弟は淀殿(茶々)。
1588年前後に淀殿が豊臣秀吉の側室になる頃、秀吉の馬廻衆(近衛隊)として3千石で取り立てられ、1589には1万石の大名となった。
秀吉死後の1599年に徳川家康暗殺疑惑の首謀者として流罪となるも、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川側)について罪を許され、その後 豊臣家に戻った。その後は当時からも淀君とは“只ならぬ関係(愛人)”と言われ、徐々に大阪城内で影響力を高め、大坂夏の陣では真田幸村ら野戦派に対し、治長らは大阪籠城を主張し、結果的に大阪城に籠城することになった。
1615年に自らの切腹を条件に、淀君・豊臣秀頼の母子助命を願い出るもかなわず、1615年6月に秀頼、淀君らとともに自害。


【真野頼包(まの・よりかね)】
真野助宗の子と言われるが、豊臣秀吉家臣の加藤光泰が対浅井戦で功績があったことから、織田信長より与力として秀吉に与えられた後醍醐源氏系で、尾張出身の大橋長兵衛の子とされ、真野助宗に養子入りしたものと思われます。
父 真野助宗は、1574年前後に今浜城(長浜城)の普請奉行として、加藤光泰、藤堂高虎、青木一矩らと共に任命された間柄で、そうしたこともあり男子がいなかったであろう助宗の養子に加藤家家老だった大橋氏の子を養子として迎えたのではと思います。この助宗は相当の武勲があったようで(小牧長久手の戦い・小田原征伐・朝鮮出兵など)、1万石を与えられ、秀吉・秀頼の近衛隊である七手組(筆頭は速水守久)の一人に数えられました。
真野頼包も父 助宗の後を継ぎ3千石を与えられ、七手組の一人として、1514年大阪冬の陣では伊達家を正面に現在の心斎橋当たりに陣を構えて防衛に当たり、翌年の夏の陣では天王寺・岡山の戦いでは毛利勝永らを七手組の一人として後方から支援する役割を担いました。

大阪冬の陣・真野頼包
(大阪冬の陣・布陣図)

大坂夏の陣・真野頼包
(大阪夏の陣・布陣図)

大坂の陣で戦死したとも、後に藤堂高虎(真野助宗と共に今浜城普請奉行の一人)家臣になったとも、実父(大橋家)ゆかりの尾張に逃れたともいわれます。

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真野氏からは大野治長を生み、茶々の乳母となって、豊臣政権内で絶大な影響力を発揮した小袖(大蔵卿局)を輩出しました。きっと来年公開の大河ドラマでも出てくるのではないでしょうか。

お市の方が茶々を生んだのが22歳のときであることから、小袖が結婚し長男を生んだのは同様に20代前半だったと思います。そのことから1545年前後に小袖は生まれたはずです。

父である(とされる)真野助宗の生誕年は明らかではありませんが、1570年前後には頭角を現し、大坂夏の陣まで生きたことを考えて1530年代後半~40年代前半に生まれたと思われます。その前提に立つと、助宗と小袖の年齢が父子ほど離れておらず不自然です。実際には親子ではなく兄妹だったのかもしれません。

また1570年に織田勢に敗れた真野元貞は後に「西養坊宗誉れ」と名乗っていますが、これは南北朝期の佐々木(京極)道誉を意識したものでしょう。「西」は湖の西を、「養」は浅井家の戒名によく付いている字であり、「宗誉れ」は「宗(宗助)を誉れ(誇らしく)に思っている」という解釈をすることができるなどを考慮すると、真野元貞と真野助宗は兄弟か親子などの近い関係にあったのではないかと思います。
※1570年の敗戦時に仮に40歳代であったと想定するなら、1520年代生まれと思われます。

こうしたことを踏まえ、私なりの仮説ですが、1518年に真野氏が野に下った後、京極氏系か浅井氏系の縁戚関係になった可能性があるのではないかと感じます。
それまでの真野氏の通字は「信」だったと思われますが、元貞も助宗もこの通字を名乗っていません。それよりも京極家と関係が深い「宗」という字を用いたり、浅井家の戒名に使われる「養」を用いたりするなど、京極家や浅井家の色が強い気がします。また小袖が浅井家家臣の大野定長と結婚し、また茶々の乳母になったのも、それまでに真野氏(助宗?)が浅井家臣団の若手の中で一定の評価を得ていたからとも考えられます。

真野氏の末裔は江戸時代は真野地域を治めた神保氏の代官として代々仕え、維新後の明治期に大阪で酒屋を経営し、第2次大戦後の農地改革で分家の方が大津市真野に戻ってきて住んでおられます。
真野信重と真野元貞の関係、真野元貞と真野助宗の関係、真野助宗と小袖の関係は詳細には分かりませんが、もしかするとより専門的に調べると分かるかもしれません。

私としては、「真野」という小さな地域が戦国期の舞台となり、また日本の歴史に大きく関わった人材を輩出したということは、「真野」に住む人のシビックプライド(地域への愛着・誇り)を醸成するに十分な材料になりえると感じています。


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今朝の新聞では議会自民系会派が自主投票方針を決定したことが報道されています。いよいよ大津市も来年1月の選挙に向けて動きがあわただしくなってきました。
まだまだ書かねばならないことがありますが、議員活動として報告すべきことも多く、市長選での争点に関する市民の皆様への情報提供もさせて頂きたく思いますので一旦、「真野シリーズ」は小休止したいと思います。ひと段落した後に再開します。


大津市議会議員 藤井哲也拝






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