大津市真野について(9)~戦国の真野②~

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先日、真野学区収穫祭&文化祭は大いに盛り上がりました。
また改めてご報告しますが取り急ぎ、真野中吹奏楽部の演奏をアップしましたので関係各位の皆様よろしくお願いします。

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1518年の六角陣営の「真野土佐守信重」vs京極陣営の有力国人衆「浅井亮政」との戦いから半世紀。再び、真野は戦いの舞台となります。

京極家を傀儡化した浅井亮政が南近江へ勢力拡大を窺う中1542年に死去。その後の浅井家は六角定頼の庇護下に入り、以後 主君の京極家を名義上は立てながらも、六角氏の後ろ盾により北近江の経営を安定させていきました。

1545年に浅井長政が誕生。六角氏は長政に対して主従関係を明確にすべく様々な対応を取ったことから浅井家臣団の反発を招き、ついに浅井久政を竹生島へ隠居を強要させ、1560年 浅井長政と六角氏が戦うことになりました。この戦いに勝利したことや1563年に起きた六角氏内部の抗争(観音寺騒動)による六角氏家臣団の浅井家への移動などで、浅井長政の力は増し、独立した戦国大名として認知されることになっていきました。

1568年、織田信長が室町幕府将軍の足利義昭を奉じて京都へ上洛する際、信長の妹・お市を浅井長政と政略結婚させ軍事同盟を結ぶと共に、六角氏(六角義賢・義治)の宇多源氏佐々木氏の拠点であった観音寺城(現在の近江八幡市安土町)を攻略しました。六角氏は以後、甲賀・蒲生にてゲリラ戦を信長死後まで続けることになりました。

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第2次と言える真野城の戦いが起きたのは1570年。
このとき、織田信長は絶体絶命に陥っていました。いわゆる「信長包囲網」です。

1570年5月、織田信長が越前朝倉氏へ軍を向けると、畿内の三好衆や、伊勢長島の一向一揆、石山本願寺などが各地で蜂起し、また朝倉氏とは祖父亮政時代から縁が深かった浅井長政が離反し敦賀付近(金ヶ崎)にいた織田信長軍の背後を襲いました。朽木経由で京都へ難を逃れた信長は6月再び軍をまとめ、現在の長浜市を流れる姉川で浅井・朝倉と戦い勝利しました。
しかしながら、浅井・朝倉には余力が残っており、同年9月に大津市で起きた「志賀の陣」につながっていきます。

信長包囲網(1570年)

志賀の陣に関する詳細はこちらをご覧ください。

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大局的に説明しますと、浅井・朝倉軍は織田軍の防御が手薄な湖西を南下し京都を目指しました。途中、坂本で織田軍重臣の森可成を敗死させ9月21日には山科・醍醐まで進出しましたが、増援に来た明智光秀らの軍勢に押し戻され、比叡山延暦寺に籠って長期戦の様相の中、9月24日以降戦局は膠着状態になりました。

そうこうしている11月25日に、浅井氏勢力下にあった堅田の湖族、猪飼昇貞・居初又次郎らが織田側に内応したのを機に、信長は重臣の坂井政尚ら1千の兵を堅田の砦に侵入させ、防備を固めることで西近江の物流差し押さえを狙いましたが、浅井・朝倉軍も素早く察知し、翌26日には比叡山より下って堅田に攻め寄せました。
坂井の軍は堅田を囲まれ孤立奮戦しましたが、結局は壊滅し坂井らは戦死、猪飼らは船で琵琶湖を渡って逃走しました。

11月30日。織田信長は朝廷を使い停戦講和を画策し、12月13日に信長に敵対する将軍足利義昭はイヤイヤながらも三井寺で織田、浅井・朝倉を仲介し講和は成立しました。
織田軍は瀬田まで撤退し、朝倉氏に対して「二度と京を狙わない」と伝えたと言われます。

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さて真野。
歴史書に残るのは、「1570年に浅井氏に呼応した真野元貞が織田信長と対立するも落城した」ということで、「元貞は出家し、西養坊宗誉と号し、その子孫は旗本神保氏の代官を勤めた」ということです。

これまで長々と状況を説明してきましたが、そうした状況から考察すると、織田軍が真野城を攻めたのは、11月下旬の堅田への坂井らの派兵前だと思われます。私なりに考える理由は以下の通りです。

いったんは宇佐山城(現在の近江神宮付近)まで押し込まれた織田軍が坂本まで押し返しました。この時点で9月24日。比叡山に籠城する浅井・朝倉軍の兵糧物資ルートを絶つために堅田を狙ったと思います。つまり真野の戦いは一連の比叡山攻囲戦の中で起きた戦いと考えられます。

当時も今も堅田は平地です。これに対し真野城は堅田(及びびわ湖)を見据え、また西近江路を眼下に北方からの浅井・朝倉の増援を監視するためにも必要だったと思います。
さらに真野の地は、伊香立途中を越えて京都大原・修学院に通じており、京都と浅井・朝倉軍との情報統制を行う観点からも、抑えなければならない重要な位置にあったのだとと思われます。
そうしたことから、物資補給を絶つために堅田湖族を支配下に置く前哨戦として真野の戦いがあったのではないかと思います。


真野城近辺

真野城からのパノラマ


おそらく10月以降に真野城へ織田軍が押し寄せました。軍勢は堅田の戦いに織田旗下坂井軍が1千人で参加したことを考えると、同規模かそれより少し多い人数だったのではないでしょうか。
これに対して、真野氏側の動員可能兵力は、真野氏の主力兵が比叡山籠城中の浅井軍に加わっていたと予想され、真野荘に加え真野普門荘や伊香立南荘、更には和邇・小野方面からの同族系の援軍を合わせて、合計で二百人~五百人くらい、最大で1千人程度だったのではないかと思います。

戦いの模様を伝える資料は残っていませんが、ある程度の善戦をした後で織田軍へ降伏したのではないかと考えらえます。最後まで戦っていたらおそらく自害や戦死に追い込まれていたはずですし、戦後 真野元貞が出家して「西養坊宗誉れ」という洒落た(バサラ風?)の名を号するようなことはなかったと思います。

しかし当時の状況下では、織田軍は圧倒的に不利であり、局地的に真野氏が降伏したような状況です。これにより比叡山籠城中の浅井・朝倉軍への補給路と情報網を湖上(堅田付近)と陸上(西近江路)双方から監視することができ、堅田の有力湖族への調略を進める上で有利になったと思われます。

戦いから一年後、織田信長は比叡山焼き討ちを行い、浅井・朝倉軍の籠城を可能にさせた山上の寺社だけではなく堅田や坂本を焼き払いました。この中で真野地域ではほとんどの寺社が天台宗だったため焼かれることになりました。
「真野の伝承」で紹介した佐川の言い伝えなどはこの時の出来事です。


大津市議会議員 藤井哲也拝







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