大津市真野について(3)~真野川②~

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こんにちは。昨日は東京都荒川区へ行政視察へ行って参りました。視察報告については後日ブログでご報告いたしますが、到着するなり 議会事務局スタッフ総出で拍手のお出迎え。恐縮しまくりましたが温かいおもてなしに感動しました。

明日は月1回の「市政よろず相談会」を午前10時から11時の間、真野市民センターで開催いたします。詳細はこちらをご覧くださいませ。

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真野川について。
真野川は昔から大雨のたびに越水し、周辺一帯は床上浸水の被害にあったそうです。
真野川の軌道改修工事が戦時中~戦後にかけて為され、現在の流域となりました。

真野宿跡の場所
(1882年制作の真野村周辺の地図)

今の真野周辺地図(宿)
(2015年現在の真野地域周辺の地図)

少し古い地図ですので分かりにくいかもしれませんが、明治時代の地図では赤い「○」印のところをかすめて一旦河は南流しています。これに対し現在の地図では赤い「○」印付近に、こうした大きな曲線は見られません。

この赤い「○」印は、大津から坂本、高島につながる旧街道「西近江路」の宿場があり「宿(しゅく)」と呼ばれていた場所です。この「宿」の前に架かっていた橋が「宿(しゅく)の橋」。
当時の周辺の写真と現在の写真があります。

真野の宿 真野の宿の橋
(左:真野の宿、右:真野の宿の石橋)

IMG_3285
(現在の「真野の宿」があった場所)

以下、真野の宿について1976年9月10日付のサンケイ新聞記事に当時の方のインタビューが残っていますので抜粋いたします。

この橋の名前も「新宿橋」だ。地元では「しんしゅく」と濁らずに呼ぶ。この橋のある一帯はその昔、大津、坂本から志賀町へ抜ける旧街道「西近江路」の宿場としてにぎわい、「宿」(しゅく)と呼ばれていた。
ー中略ー
ところでこの絵図によると、当時の真野川は現在より南約100メートル離れた所を蛇行しており、橋は中村家のすぐそばにかかっていた。そして橋の名も「宿の橋」、当時は「しゅく」がなまって「しく」の橋と発音されたという。この「宿の橋」を最初に石造りの永久橋に造り替えたのは中村さんの祖父で中村家九代目当主・衛二良さん。昔ここには、丸木橋がかかっていたが大雨のたびに真野川がはんらんを繰り返し、そのつど橋は流失した。村の強い要請で衛二良さんは明治時代のは初め、長さ約10メートル幅2メートルの石造りの永久橋を架設した。中村さんが成人するころまでこの橋の両側は竹藪で覆われ昼でも暗く、橋の幅が狭いため、しばしば江州米を満載した牛車が橋から転落したという。大正8年から12年まで在住した堀田義二郎知事の時代に川の両岸に遊歩道をめぐらす計画が立てられ、両側の竹藪が刈り取られた。ところがこのあと堀田知事は転任。遊歩道計画もご破算になってしまった。これまで竹藪によって地盤が補強されていた河川敷は竹藪がなくなったため、川の増水のたびに崩れ、鉄砲水、洪水が頻繁におこるようになる。それによって蛇行していた真野川は昭和20年ごろまでに現在の位置まで北上した。そこで県は戦後23年4月に河川敷を補修し、現在のところに架けた橋が新宿小橋だ。
ー中略ー
それから30年たった昭和52年3月に県は栗東ー大津線の整備作業として、アーチ型の近代的な橋をその西方に建設。「新宿橋」と命名した。現在この橋を途中越えで京都、八瀬、大原へ、また福井県小浜市へ抜けるトラック・乗用車が連日数百台通過する。中村さんは「今では地元の人でさえ”しんじゅくばし”と呼びます。まるでそこが東京の新宿のように新宿という地名があるみたいですが、時代の流れと共に忘れられていくようです。しかし新宿橋は真野の歴史、ひいては我が家の歴史にも深く根をおろしているわけです」と話す。
昔、宿の橋があった場所には蒲が生い茂り、そこに立派な石橋があったことを知る人はほとんどいない。


一点上記新聞記事で検証すべきなのは、「竹藪によって地盤が補強されていた河川敷は竹藪がなくなったため、川の増水のたびに崩れ、鉄砲水、洪水が頻繁におこるようになる。それによって蛇行していた真野川は昭和20年ごろまでに現在の位置まで北上した。」とありますが、違う古老の方にお伺いしたところ戦時中に朝鮮半島から徴用されてきた方々が真野川の軌道改修工事を担ったというものです。

いずれにせよ戦時中から戦後にかけて河川軌道改修がなされたことにより、1972年に制定された琵琶湖総合開発特別措置法に基づいて1990年代半ばまでに行われた、琵琶湖の治水・社会基盤整備を目的とする琵琶湖総合開発事業において、堅田を流れる天神川や和邇を流れる和邇川が大規模な護岸改修により河川氾濫のリスクが大きく減少したのに対し、真野川は護岸改修の対象から外れたため、今なお大雨のたびに地域全体で警戒態勢が敷かれる遠因ともなっています。

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古代の滋賀4郷(真野郷、大友郷、錦織郷、古市郷)の一つ、真野郷は中村地区にあったと推定されています。
少しマニアックですが、かつてこの中村の地で川が二手に割れ、北流した一方の川は現在の真野川の河口となり、南流したものは今堅田から琵琶湖に注いで、自然に流れる土砂や洪水によって運ばれる土砂で中洲が形成され草が生え、木が茂り出島となったと考えられています。

真野旧川(イメージ)
(真野川南流のイメージ)


堅田の出島(でけじま)の地形を見ると、確かに琵琶湖にせりだした形になっていて、真野川南流が注いでいたと考えてもいいかもしれません。堅田内湖もきっとこの名残と考えられます。
大正時代、真野中村地区から堅田内湖の間を流れる「新堀川」が作られました。おそらくこのルートに近かったのではないでしょうか。

鎌倉時代~南北朝・室町時代(1100年代~1400年代)にかけて、真野の入江は相次ぐ河川氾濫により土砂が堆積し田園風景が広がるとともに農業が盛んとなり、真野から堅田に人が移り、堅田の町が開けていきました。


大津市議会議員 藤井哲也拝








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