大津シビックプライド・ウォーキング1日目(4)

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大津駅から浜大津、大津宿跡、長等神社、三尾神社と回ってきまして、ようやく三井寺(園城寺)です。


【三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)】

園城寺は滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。
開基は天智天皇の孫にあたる大友与多王で、本尊は弥勒菩薩。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所。近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。

7世紀に大友氏 (古代豪族)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。
近世には豊臣秀吉によって1595年 寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺の起源については、次のように伝承されている。
近江大津宮を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。
天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没しており、大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。
壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。
なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。
しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
(wikipediaより引用)




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「三井の晩鐘」は有名で近江八景のひとつに数えられます。
特に音色がきれいと言われて久しく、この鐘をめぐっては武蔵坊弁慶が比叡山まで担いで登ったという逸話が残されています。


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金堂は国宝です。
そして少し上ったところにある観音堂からは、先ほどの高観音近松寺と変わらないような絶景が見ることができます。



境内が広いので全部回るのにけっこう時間がかかります。
ゆっくりめに回ると1時間、速足でも30分はかかると思います。
10時に大津駅を出て13時前。そろそろ昼食をとろうと思います。

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三井寺のすぐよこの円満院門跡というところで、開運そばというのを出しておられます。
大津市役所から近いこともあり、議会活動の合間に何度か食べに来たこともあります。
食事後は、天智天皇陛下の息子・大友皇子(弘文天皇陛下)を祀っているところへ向かいます。


※1日目(5)へ続く。


大津市議会議員 藤井哲也拝





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