集団的自衛権を巡る憲法解釈の変更。

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おはようございます。
滋賀県の大津市議会議員(新世代・滋賀大津)の藤井哲也です。

経営する会社の決算が6月末だったため、数日間はそちらの業務で忙しくしておりました。
おかげさまで第11期も終了し、第12期目に入りました。精進して参ります。

ところで本日7月4日に予定されていた「集団的自衛権を巡る憲法解釈の変更(解釈改憲)」の閣議決定が7月1日になされました。閣議決定が前倒しされたのは、北朝鮮への制裁の一部解除などの時期を勘案しての報道対策からだと思いますが、私なりに今回の閣議決定の件で感じたことを以下述べます。


【1】「解釈改憲」について

 「立憲主義」という言葉をよく聞きます。立憲主義とは私なりの理解では、内閣の権限が憲法の下におかれるというものです。日本国憲法は時の権力者(内閣)が都合のよいように変更できないようにされている、いわゆる「硬性憲法」とされています。
 現在の日本国憲法が押し付けられたものかは別として、「憲法」という国家の最高法規は、国民の総意によって形づけられたものであり、本来は簡単に変更されるべきものではないと思いますが、時代とともにその内容や解釈は変更しても良いと私は考えます。
 これまで憲法が改正されたのは、大日本帝国憲法から日本国憲法に改正されたときが唯一でありますが、時代をさかのぼると、1907年に大日本帝国憲法の制定に尽力した伊藤博文初代首相自身が「憲法改革」を行ったとされます。
 つまり、帝室制度調査局を創設し、皇室の国制化を行うと同時に、軍部による帷幄上奏権(内閣総理大臣の副署なしで、陸海軍大臣が直接奏上することができる)を見直し、文官(内閣)によってコントロールできる範囲を大幅に拡大したものです。
 このときは「憲法改正」は行われませんでしたが、実質的に「憲法解釈の変更」がなされたのに等しいと思います。
 特筆すべきは1907年当時、国会などの干渉を忌避した軍部が、統帥大権に関する事項を拡大し、編制や常備兵額に関する事項まで内閣を通さない慣例ができつつあったことです。どこからどこまでが帷幄上奏にあたるのかが不明確となりつつある中で、結果的に「制度=法令=軍令」により、何が帷幄上奏事項なのかを明確にしたことに意味があると感じます。
 ひるがえり現在の「集団的自衛権」を巡る議論において、解釈改憲がなされること自体は私は否定しませんが、1907年当時のように「制度=法令」によって実態が整備される必要があります。
 安倍首相は数か月間で法案を検討し、提出すると述べています。今後、政府が述べる具体15事案に限らず、さらに踏み込んで議論をし、国家防衛、国民生活の安寧が保たれるような法整備がなされることを期待します。

【2】「閣議決定」について
 解釈改憲自体に私は理解をするのですが、長年 憲法解釈変更に消極的だった内閣法制局人事を一新し、1ヵ月半で解釈変更を閣議決定したことについては、あまりに拙速だと思います。スケジュール的には今年末の「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」の改定や、2016年の参議院選挙までの日程を逆算して、この時期にしたものだと思うのですが、国民の半分以上が集団的自衛権について理解が進んでいない中では、国民軽視の判断だと言わざるを得ません。
 当然、憲法解釈の変更については、安倍首相が述べるように日本周辺のパワーバランスの環境変化が挙げられるのは分かりますが、それは今日に始まったことではありません。10年前から中国の台頭、北朝鮮の不安定さは想定範囲の中にあります。たとえ3カ月や半年議論しても、いますぐ極東において有事が発生するとは思えません。現在のところ、米国の太平洋戦力だけで有事を避けられる十分な抑止力は担われています。中国が軍備を拡張していくにしても航空母艦などが整備されるのは少なくとも5年~10年先です。また北朝鮮の暴発についても総書記逝去による混乱から脱し昨年の大量粛清を経て、善し悪し抜きで一時の安定時期に入ったと思われます。そこまでして閣議決定を急ぐ必要があったのかは甚だ疑問です。
 なによりも「閣議決定」には拘束力はありません。あくまでも国会による「制度=法令」が整い、予算措置がなされて初めて効力が生じるものですから、一内閣の「閣議決定」にはあくまでも方向性を示したにすぎないものだとも言えます。
 ここで一つ懸念なのは、今後制定される関連法令の審議において、自民党・公明党が国会や民意を無視して、強権的に法制定を進めないかというものです。
 喩えは極端ですが、1933年のナチ・ヒトラーによる全権委任法による実質的なワイマール憲法の停止のような事態も、集団的自衛権関連の法令整備においては部分的に起こりうるわけで、そのあたりはよく国民は注視していかねばならないと思います。
 そう考えるとこの集団的自衛権の論議は、消費税増税論議と合わせて、来年の統一地方選挙は中間選挙的な意味合いからも、非常に大きな意味をもつものになるかもしれません。

【3】閣議決定に至った空気
 集団的自衛権の効果や実効性を持つための法整備について、私は知識を持ちませんので、ここには記載しませんが、従来の後方支援のみならず、戦争に加担することになる集団的自衛権の行使は一線を越えた感を抱きます。戦争を起こさないための「抑止力」を高めるために集団的自衛権が必要だとの理論組み立ては一定理解するものの、今後50年、100年先を考えた場合は私は違う選択肢も検討すべきとは思いますがここでは述べないようにします。
 今回の閣議決定については、安倍首相の強い信念を感じるものです。しかしそれを可能とさせたのは日本を取り巻く空気だと感じます。つまり「愛国」「護国」「ナショナリズム」という空気です。私自身は愛国心は持っていると思いますが、今の日本を覆う愛国の空気には少し違和感を覚えます。
 ナチドイツの元帥を務めたゲーリングは戦争の始め方として次のように述べています。「国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやりかたはどんな国でも有効ですよ。」と。
 また、先にも取り上げた伊藤博文は次のように述べています。
 「特に愛国心愛国心と言って、外の業務を忘れて愛国心の作興に従事するなど云うことは真に学者の僻見である」
 「本統の愛国心とか勇気とか云うものはその様な肩をそびやかしたり、目を怒らせたりするようなものではない」
 「富に頼らなければ人民の文化も進められぬ。愛国心の発展もこれよりしなければならないのである。国を護ると云うけいれども、赤土を護った所で何の役にも立たぬ。」と。
 約100年前の言葉であるにもかかわらず、現代に生きる言葉だと私は思います。
 確かに、価値がない土地を護っても意味がありません。経済的、文化的価値があるような状態にすべきであり、本来の愛国者はそちらに目が向かうべきと思います。
 

今回の集団的自衛権の解釈改憲に伴う法整備は今後本格化すると思います。
観念的に日本が攻撃されかかっているという風潮は排除されるべきで、プラクティカルに危機を分析し最善の策をとるべきで、議会制民主主義の質が問われる、ひいては有権者の眼が問われる時期が迫っているように考えます。
私個人的には、イデオロギーによる対立ではなく、よりよい日本の安全保障のために、与野党ともに融和し議論をすべきと思います。またグローバルな経済感覚もこれからの国防議論には必要となることから、相応の立場にある方がこの問題に興味関心を持ち、それぞれの立場で意見を表明していく必要もあると考えます。


大津市議会議員 藤井哲也拝






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