真野を歩く。

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おはようございます。
大津市議会議員(新世代・滋賀大津)の藤井哲也です。

議会は先週で終わりましたが、引き続き常任委員会や政策検討会議が動いています。
本日は「(仮称)大津市防災基本条例」の制定に向けた検討会議です。


最近いろいろと書きたいことがありますが1日1テーマを基本にしていますので、どうしても報告事項が遅くなってしまうこともあります。
先週土曜日に開催された「真野探訪」は大変勉強になるイベントでした。

私は小学校から現在に至るまで、「大津市の真野」という地域に住んでいます。
(それまでは長等学区に生まれ、平野学区で幼少期を過ごしました。)

この「真野」の歴史ついては、これまで深く勉強する機会がなかったのですが、今回のイベントに参加してみて多くのことを知ることができました。大変有意義なイベントだったと思います。


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真野は旧史より自然豊かな土地柄であったようで、佐川地域ではマンモスの牙が出土しています。縄文時代には既に人が住んでいて、「矢じり」も発掘されています。その「矢じり」は驚くべきことに奈良県の二上山産や、島根県沖の隠岐島産の鉱物が使われており、その時代の文化交流を垣間見ることができます。

実は大津市の北隣にある高島市は、古来より鉄の材料となる鉱山があったとされ、近江北部の息長(おきなが)氏の影響が強くあった地域です。(この息長氏は応仁天皇系で、天皇家へ多くの妃を提供する家柄であり、天皇家断絶の危機に合った際の継体天皇はこの息長氏系であり、また天智天皇、天武天皇は共に息長氏系であると言われています。)
そうしたことから、製鉄処であった高島の近郊であり、またびわ湖という交通の要衝を備え、京都への最短ルート(途中~大原越え)の入り口である「真野」は当時、大いに栄えたと考えられます。
弥生時代の土師器も多数出土しており、農業も盛んであったと考えられます。


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(大量に縄文時代~弥生時代の出土品が出た地域。真野小学校の裏側)

上写真で見える山が、曼荼羅山です。
その山の周辺には大変多くの古墳が存在しています。それらの多くが「和邇氏」のものとされています。(この和邇氏も先程の息長氏同様に朝廷に多くの妃を輩出したことで有名です。)
和邇氏はその後、小野妹子などで有名な小野氏、また真野の地を治めた真野氏に分かれました。


時代は進み、真野は近世では交通の要衝として重きをなしました。
やはり京都防御の前線基地として「真野城」が、現在の真野沢・浜地域に築城され、江戸幕府が開かれる前後まで存在したとのことです。(1518年に城主の真野土佐守信重が、小谷城主浅井備前守亮政に攻められ落城したと史書に記載があるようです)


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江戸時代後期になると、農業がますます盛んとなり、水利をめぐり様々な問題が生じたようです。そこで近江出身の比叡山の高僧である豪恕上人が曼荼羅山のてっぺんに水の神様である金毘羅宮を建てました。現在も手厚く管理されていて、今年は200周年祭りが開催されたところです。


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そして戦後、真野にも都市化の波が押し寄せました。
民間業者による住宅開発が進む中で、自然湧水が枯渇する事態が生じ、地域の農業従事者の粘り強い交渉と、ときの大津市長・山田耕三郎氏、滋賀県知事・武村正義氏の理解により、びわ湖から取水して逆水ポンプを利用して、農業のためのきれいな水を確保することができたとのことです。


歴史好きの私としては、時間があればもっともっと真野をすみずみまで歩きたくなりました。
「真野」の語源は「美しい野原」という意味とのことです。

今後も真野が自然と調和しながら、ますます住みよい街になっていけるように微力ながら注力できればと思いました。


大津市議会議員 藤井哲也拝




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