サラリーマン時代。

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おはようございます!
大津市議会議員、藤井哲也です。

5月に入りました。そして現在、大型連休の中日です。
昨日も今日も明日もお仕事されている方も多いと思います。お疲れ様です。
国は連休を増やせば消費が増えて経済対策になると数年前に言ってましたが、私はそうは思えません。
各人の所得が増えなければ、いくら連休を増やしたところでお金を消費することはありません。
逆に会社にとっては生産活動がストップするにも関わらず、正社員に対して給与や社会保険などは定額かかってきますので、負担が重たくなります。ひいては収入源、雇用減につながりかねません。
まず取り組むべきは、実質経済の成長にほかならず、連休を多くすることではないのは明らかだと思います。
私の友人にも、大型連休にもかかわらず一日も休まず仕事をしている人もいます。
みんなが休んでいるときに働くときっと差が出てくると思います。

そういえば、このような考え方は私のサラリーマン時代に培われました。
今から10年前、2003年5月10日に、2年間余り勤めたヒューマンリソシア株式会社を退職しました。
主に人材派遣や人材紹介をやっている会社で、関係会社にヒューマンアカデミーを持っています。

大学を卒業する際に、とくかく「営業スキル」を磨ける会社に入りたいということで、3社内定を頂いたうちの最も営業が厳しそうだった同社を選択し、2001年4月に入社しました。
確かに非常に厳しい会社で、当時は鬼軍曹みたいな常務取締役がいて、常に会社全体にサービス品質向上と、数字達成に向けた緊張感が充満していました。
まあ一般的な営業会社といえば営業会社何だと思いますが、おそらく一般以上の厳しい会社だったと思います。

もともとは1年で辞めるつもりで入社したのですが、とても1年では営業スキルを確立できていないと感じ、もう一年続けることにしました。結局2年いたから営業スキルが高まったかどうかはわかりませんが、自分なりにはある程度納得できる水準まで高まったと感じています。
この当時のことを書けば長くなりそうですが、ちょっと書いていきたいと思います。

この会社で学んだことは、営業の基本的な事柄です。
しかしこの基本的な事柄というのが実はかなり難しいというのはやってみるとわかりました。
当時の会社の執行役員の方と同行営業をさせて頂く機会がありました。その際にその方が言うには、「なぜ自分は役員に抜擢されたと思うか?」という問いでした。私は何と答えたかは覚えていませんが、その方の答えは覚えています。「当たり前のことを当たり前にできるからだ」でした。
この言葉の重みは、営業なり管理なり、仕事に真剣に取り組んでいる人なら、分かると思います。
このようにあっさりと「当たり前のことを当たり前にできる」という人はそんなにいませんし、いたとしても自称できる人に過ぎないと感じます。

また本社営業部は50人くらいいて、その中で毎日誰かが、朝礼登板となり社訓の唱和をリードしたり、朝のスピーチを2~3分かけて行うのですが、なぜか1週間のうち3、4日は私が指名されていました。(もっと他に人がいるのになぜ?)
当時はこのスピーチがイヤでイヤで仕方なかったのですが、これが1年以上も続くと、常に話する内容を考えて生活するようになりました。50人以上の先輩や取締役もいる中で平社員の私が毎日スピーチするのは本当に大変でしたが、少しでも会社の利益につながるようなスピーチにしようと、毎朝、日経新聞を読み、関係する業界雑誌を読み、社会動向に目を光らせました。そしてそうしたニュースの中から自社でできそうな新しいサービスや商品のプレゼンや話題提供、ひらめきをスピーチの中で織り交ぜるように自分なりに工夫しました。

この経験は自分に取り非常に良かったとのちに思います。
会社経営者にとり、一番重要なことは、「先見性」だと私は考えています。
そのスキルを、毎日スピーチをする話題を考えるということで、習慣化できたと感じるからです。

そのほか、私は起業することを心に決めていたため、起業資金を貯めるために、下宿はせず飲み会にもほとんど参加せず、滋賀県から大阪の本社まで電車通勤をしていました。
毎朝6時30分くらいのJR堅田発の電車に乗り、JR大阪で地下鉄に乗り換えて、8時00分前に到着するという流れです。そして帰りは、毎日23時20分大阪発の電車に乗り、自宅に着いたのは深夜1時少し前でした。毎日寝る時間は4時間くらい。土曜日も基本出社しなければならなかったので、一年の内、ほとんどの日数をこのように過ごしていました。
とにかく練る時間を多く確保するために、JR大阪駅についてから身支度をするようにしていました。
「泉の広場」という場所が大阪駅にありますが、当時は今とは異なる雰囲気でした。
朝の時間帯はホームレスの方も多くいました。2年間、毎日そこで身支度をしていたので、そうした方とも顔見知りになり、いろいろな会話をしました。

私が「若者が情熱を持ってイキイキと働ける社会づくりに取り組む」という理念を持ち、フリーターやニート都いった方々の就労支援の会社を立ち上げた原点はそうした方との会話の中から生まれました。
このままの社会では、「いつか誰しもがホームレスや生活保護受給者になってしまう」という危機感を日に日に募らせていきました。

そのほか、このサラリーマン時代のことをかけばエピソードに事欠きません。
会社経営をしてきた10年間も非常に多くの経験をしてきましたが、私が社会に出た最初のこの2年間の濃密度は半端なく、私の考え方や行動スタイルに大きく影響しています。

この会社と、お世話になってきた上司や先輩にはいまなお恩義を感じており、育てて頂いたのにも関わらず、投資額以上の貢献ができないまま去ったこともあり、いつか社会貢献を通じて恩返しをしたいと思っています。
自分自身で社会に何か影響力を与えていくときにワクワク感が出てきます。しかしその前提としては人に雇われない生き方をするための基本的なスキルが必要だと思います。
この会社で培った営業力と先見性の基本は、私のいまに生きていると思います。



先日、この当時の後輩が結婚式をあげられました。本当におめでとうございます。
退職して10年経つにもかかわらず、いまも関係はゆるくつながっています。
戦友との出会いにも似た出会いの時間を持てたことも本当にうれしく思います。
まだまだ道半ばですが、当時考えたこと、これからやらねばならないことを改めて振り返り、政治家として、会社経営者として、未来の若者が経済的自立ができる社会になるように、鋭意取り組みたいと思っています。


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大津市議会議員 藤井哲也拝

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