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「真野」という地名の由来(4)



 「真野の入江」が、果たして堅田内湖を中心に真野東浦や今堅田にあったのかという問いに対する私の見解です。結論から言えば、やはり古代から中世にかけては、やはり現在の堅田内湖を中心とする地域に「真野の入江」があったのではないかと私は考えます。

 国土地理院のホームページで自分で標高ごと(1メートル単位)で色分けして表示できるようになっており、ためしに自分で図を作成してみました。




 
 琵琶湖がどこまで迫っていたかを考える際に、図上部にある赤抜きの白丸印で示した場所にあったと考えられる「神田神社」、図最下部にある白抜き紫丸印で示した場所に現在ある本福寺に注目したいと思います。

 神田神社は、第5代孝昭大王の皇子「天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)」と「彦國葺命(ひこくにふくのみこと)」と、天照大神の弟「須佐之男命(すさのおのみこと)」を祀っています。
 かつては「小字 下川原」にあったとされており、神田神社境内には、「真野の入江の汀(なぎさ)、神田(みとしろ)の地に神殿を建ててお祀りしたのが始まりで地名により神田神社と申し上げます。」とあり、滋賀県神社庁HPにも、「(和珥臣鳥 務大肆忍勝の)裔孫達が嵯峨天皇弘仁二年真野の入江の渚に近いカンタの地に遠祖を祀ったのが当社の創祀と伝えられる。」とあり、ほぼ確実にかつての神田神社は、琵琶湖に面した波打ち際(汀:なぎさ)にあったと考える事ができます。


(元神田神社があったと考えられる下川原から撮った比良山系。雪が比良の高嶺に積もっている)

 
 「小字 下川原」は、上図の赤抜き白丸印周辺で、現在はレークパレス大津堅田というマンションが建っている辺りではないかと思います。真野地域の「小字」がどのあたりに在ったのかを調べようとしましたが図書館などにはなく、労力もかかりそうなのでやめました。時間があればまた調べようと思います。



(真野川に架かっている「下川原橋」は、小字 下川原から)


(レークパレス大津堅田は、字 下川原で占用許可を受けている)



 また、真野の元神田神社(創建810年)や、今堅田にある伊豆神田神社(伝860年創建)、本堅田にある伊豆神社(892年創建)や満月寺浮見堂(995年頃)の存在を考えると、急激な干潟・田地開発や、びわ湖の急激な水位低下の可能性は否定できませんが、やはり堅田内湖あたりを中心としたエリアが「真野の入江」だったのではないかと考えられます。
 おそらく飛鳥・奈良・平安時代前期には、滋賀四郷のうち「真野郷」が、現在の堅田と真野及び和邇、小野を合わせた一帯のことを指し、(まだ堅田という名称が一般的でなかったことから)現在の堅田学区に位置している入江のことを、「真野の入江」と呼んだのだと推定できます。

 ●有明の月の光に舟出せむ雲吹きはらへ真野の浜風
 ●つららゐる真野の入江に漕ぐ舟の跡をとめつつかづく鳰鳥

 図上部の白抜き赤丸印の地点には、現在「真野の入江跡」の標識が立っています。「真野の入江跡」標識地点は、本福寺や伊豆神田神社の存在を考慮した琵琶湖水位(標高86m)から、かなり離れた場所にありますが、緑色の等高線(86m以下)と黄色の等高線(87m以上)の標高差は1メートル程度であることを考慮すると、琵琶湖の水位が高くなった時はきっとこの一帯にも小さな入り江ができた可能性があると思われます。
 もしくは、(地質調査等をすればすぐに分かると思うのですが)真野川南流が廃川となってからも、北流(現在の真野川)は残ってきたことから、国道477号線より北側は、土砂が南側よりも堆積して、自然と標高が上った可能性も考えられます。もしそうだとしたら、「真野の入江」は「真野の入江跡」や下川原にあったとされる「元神田神社」辺りまで含んだ、かなり大きな入江を形成していたのかもしれません。

 比良山系と琵琶湖に挟まれた非常に美しい景色は、今も昔も変わらないように思います。美称としての「真」がつけられた、景勝地の平野が広がっていたに違いありません。
 そう考えると、室町期(1500年前後)に近江八景の一つに数えられた「堅田落雁(かたたのらくがん)」も、「真野の入江」あたりの風景だったと言えます。
 以上のことから、「真野」という地名は、主に地域の景観に由来していると私は考えています。


 * * *

 さらにもう一つだけ考えておきたい事柄があります。
 それは神田神社(真野普門にある上の神田神社の方)は、滋賀県神社庁HPによると、「明細書によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると持統天皇4年に彦国葺命12世の裔孫和邇部臣鳥務大肆忍勝等に真野臣の姓を授けられた。同年9月居館の傍にある浄地普門山を宮居と定めて素盞鳴命を鎮祭して間野大明神と奉斎せられた。」とあります。

 真野の入江近くに建っていた「(下の)神田神社」と、真野普門にある「(上の)神田神社」の関係については以前記事に書いたことがありました(あらためて追筆記事を改めて書こうと考えています)が、私が気になっているのは、祭神として(上の)神田神社に新たに祀った素盞鳴命を、「真野大明神」ではなく「間野大明神」と言っていることです。

 ここからは完全に私の推測になってしまうのですが、もともとは此の地の古名は「間野」だったのではないかと考えています。それが美称である「真」に置き換えられて「真野」となった可能性もあると考えています。和邇部臣鳥らは、此の地を治めるにあたり、古名であった「間野」を用い、素盞鳴命(すさのおのみこと)をもって畏くも土着神もしくは産土神として祀ったのではないかと勝手に思う訳です。
 ※

 真野は肥沃な「デルタ地帯」であると、これまでも紹介してきましたが、「デルタ地帯」とは三角州のことで、2本以上の河川が山から海・湖に流れ込んでできる砂地です。現在、真野川は1本だけですが、かつては現在の真野川より北方を流れていた河川と、もう一本、堅田出島あたりに流れ込んでいた河川、そして天神川によって堅田、真野の平野部が形成されました。
 堅田が開けたのは平安後期から室町時代と考えており、それまでは堅田は湖部分または湿地帯だと考えられています。

 びわ湖大橋が開通した翌年の昭和40年(西暦1965年)に真野小学校教師の横山幸一郎先生が生徒と一緒に発行した「むらのきろくー真野の歴史ー」には、このことが書かれています。少し長いですが転載させて頂きます。

◯真野川の歴史
 地図をみておどろくことは、びわ湖のつき出たところが二カ所ありながら、他方に川がないことです。つまり中村の東にふつう浜先きと呼ばれている地には、真野浜があり真野川が流れています。川がデルタ地帯をつくるという土地造成の基本に従っています。さて出島(でけじま)といわれている今堅田も湖につき出ていますが川がありません。自然に突き出して地形ができたーという考え方は納得できません。そのはずです。出島の方にも川があったのです。真野の古文書の類は元亀、天正のころの戦乱で焼失していますので、古地図などは残っておりませんが、堅田にある古地図には、はっきりと真野川が描かれています。それによりますと、比良山の南端、伊香立の山手から端を発した真野川が中村に至って二つに分かれ北流して真野浜を造り、南流して今堅田を造っていたのです。そういえば今も今堅田の部落には廃川と思われる河川が部落を横切っています。ちょうど日本一の琵琶湖大橋はその中間の所に建設されている訳です。これも東に対する野洲川が北と南の二流を有していることからも考証されます。この真野川と野洲川が西と東から山手の土砂を運び、日本一の琵琶湖を両方からせばめ、つまりびわ湖最狭の地を形成しているのです。また近江盆地の野洲川デルタ、真野デルタをつくり、江州米とよばれる良質の米を選出しているのであります。<中略>大和時代から奈良時代になると南流、即ち堅田へ流れる川が大手筋で水量も豊かで堅田の土地を造っていく。川の周辺の自然堤防に人が住みつき生活するようになる。堅田は地名の通り、湿田が干潟になり良田、堅い田になっていく、その希いが地名になったのであるが、また堅田の先祖は真野から移住によっている。堅田の古文書に「マノノ漁師、カタタに居そめて漁をし渡しもりをする。」というのがあると聞かされている。このことをよく証明している。さて北流の方は平安時代までは、沢・北村辺であの有名な真野の入江は、沢と北村の中間であるからである。北流が浜の辺りに伸びてくるのは中世、鎌倉、室町、安土、桃山時代で現在の浜の部落が出来たのは江戸時代からである。とすると、いつごろから南流が廃川になるのであろうか。それは江戸時代からで南流の川の周辺を開発し、田畑にしたそうである。江戸時代以降には南流の川が地図の上で消失し、逆に田畑が増加していることによっています。明治・大正時代は北流の真野川が盛んに洪水を起し村人を困らせる。そのために流れの方向を昭和になって変え、中村地区を通過させないで、まっすぐ現在のように流す。その先端に水泳場ができ、びわ湖大橋がかかっているのである。


 以上、真野川の歴史を取り上げてきました。
 再び、「真野」の地名の由来です。私は、「景観」が地名に関係しているのは確実だと考えますが、ベースになっているのは「地形」ではないかと思う訳です。つまり「地形+景観 由来説」です。

 北国海道(鎌倉幕府ができるまでの、倭京(飛鳥)や平城京、平安京の人が、日本海側に抜けるための幹線道路。西近江路とも。)において希少な平野部であった真野一帯は、真野川の北・南の二流によって形成された三角州でありました。この三角州(川と川の「間」)にできた平野部を、「間野」と呼んだのかもしれません。
 


フジイテツヤ


「真野」という地名の由来(3)



 引き続いて、大津市北部の「真野」の地名由来について。
 最後の仮説は、【「3」景観 由来説】です。

 真野市民センター敷地内に、「真野」の地名の意味について碑文が立っています。


 真野とは美しい野という意味で、丘陵が琵琶湖に迫った地形が、この付近で大きく開け、琵琶湖にのぞむ景勝の地であるところから、地名となったと考えられます。奈良時代から平安時代にかけて滋賀郡におかれた四郷の一つに真野郷が見られ、「真野の入江」は歌枕に数えられています。


 前記事に書きましたように、「真野」の「真」という文字は、原野や一面の野原という意味でつけられたものではないようです。碑文にあるように「美しい」という意味で「真」が使われているかはその通りだと思います。(その土地を良いとして称えるワード「真」から考えると)

 また以前の記事にも紹介しましたように、国道477号線の新宿橋(しんしゅくはし)上にはモニュメントがありますが、その隣にあるプレートには、「真野という地名は、美しい景色と豊かな土地を意味している」とあります。



 「野」は名前の通り、平坦な土地を指すものと考えられ、この「真野」という地域は古来(少なくとも古墳時代以降)から人が住むに適し、真野神田遺跡などの痕跡や和珥部氏などが住んだことを見ると、農耕も漁業も活発な地域だったと考えられます。
 また古来、和歌では「真野」が多く取り上げられ、「真野の入江」は歌枕になるなど、景勝地でもあったようです。

 ●色かはる比良の高嶺の雲を見れば初雪降りぬ真野の萱原
 ●近江路や真野の浜べに駒とめて比良の高嶺の花を見るかな
 ●鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波よる秋の夕暮れ
 ●浜風に尾花が露はたまらねど真野の入江に月は澄みけり
 ●真野の浦を漕ぎ出でて見れば楽浪や比良の高嶺に月かたぶきぬ
 ●桜咲く比良の山風海吹けば花もて寄する真野の浦波
 ●明け方に真野の浦さび降る雪や比良の高嶺に出づる月かも
 ●真野の浦の入江の波に秋暮れてあはれさびしき風の音かな



 「真野の入江」、「真野の浦」から、「比良の高嶺」や「波(浪)」や湿地帯の萱原(ヨシ原)などを見て読んでいる歌が多く、その光景は物思いに耽ることができる静かな場所だったのに違いありません。

 現在、真野の「沢」に、「真野の入江跡」があります。


(真野の入江顕彰碑。都定氏や西上富造氏らによって設置。文は横山幸一郎氏、書は真嶋氏)


 これも以前紹介した大津市制100周年の際に真野学区自治連合会が作成した記念誌に、「真野の入江」に関する検証が記載されています。


 
 奈良、平安時代(前期)の「真野の入江」は、現在の真野・沢にある標識地ではなく、現在の真野・東浦や今堅田、堅田内湖のあたりが入江状になっていて、「真野の浦」を形成していたのではないかという考えです。

 文章が長くなりましたので、「真野」という地名がなぜ付けられたのか、「真野の入江」の形状、景観を材料に次の記事でまとめようと思います。


フジイテツヤ







「真野」という地名の由来(2)



 大津市北部にある「真野」という地名の由来について。
 続いては、【「2」孝昭天皇(御真津日子訶恵志泥命)由来説】を考えたいと思います。


 この説は、以前記事にも書きましたが、国語学者で京都学派重鎮の吉田金彦氏(現 姫路獨協大学名誉教授)が、1984年5月27日 京都新聞「古代地名を歩くシリーズ」で書いたところに依ります。以下、当時の新聞記事からの転載です。

 琵琶湖大橋を渡って西へ歩くと、そこは真野町である。マノ、真野ー読んでも書いても、実によい名前だ。古代の有力な豪族和珥氏の氏族・真野氏が支配していた所だったから、ここが真野となったものだ。が、それも遡れば、ここの式内社、神田神社の摂社のご祭神が、御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)ということを考えると、マノ(真野)はミマツ(御真津)に因んでいる語であるらしい。マツ(真津)がマノ(真野)に言い換えられている。
 というのは、堅田が発達する以前は、この真野こそが水陸交通の要衝として栄えた土地だったからである。古代の真野は中央を流れる真野川が肥沃なデルタ地帯を形成し、水害の少ない湿田低地帯だったが、それが美称のマノ(真野)と言われるようになったのは、マツ(真津)という古名があったからだと推定される。それだけにここは、重要な渡し場だったのである。
 マノ(真野)は全国的に多い地名で、たいてい古い土地が多い。<中略>「真野」と書くので本当の原野だとか、人手の加わらない野とかに見る考えもあるが、マは美称でその土地の由緒のあることを伝え、その土地を良い土地として称える語、それがマノ(真野)なのである。<以下略>
 (京都新聞 昭和59年5月27日記事より)




※当該シリーズは単行本化「京都滋賀古代地名を歩く」もされています。志賀や穴太、堅田、高島などの地名由来も興味深いです。
 


 そもそもの話。
 第5代天皇・孝昭大王(御真津日子訶恵志泥命)は、欠史8代のうちにあり、系譜しか記紀に記載がなくその実在が疑われています。古事記が712年(壬申の乱で活躍した多氏後裔の太氏が編纂)、日本書紀が720年(天武天皇の子の舎人親王が撰者)に作られており、この時代には「御真津日子訶恵志泥命」(日本書紀では、観松彦香殖稲天皇)という名が一般化されていたと言えますが、いつの時代に「御真津・・・」という名前があったのかは不明です。

 しかし、前記事に書いたように、真野臣を与えられた「和珥部臣鳥」らの祖先で最も皇統に近かったのが、第5代の孝昭大王(御真津日子訶恵志泥命)だったわけで、順序から考えると、和珥部臣がこの地(マノ)に住む前から、この地は「眞野(村)」と呼ばれていたことから、「真津」から「真野」に言い換えられたという由来説は、スムーズではないように思われます。つまり、和珥部臣やその祖先である御真津日子訶恵志泥命は、地名とは関係ないのではないかと考えられます。

 また、和邇氏とゆかりが深い奈良県天理市和爾町の「和爾下神社」の祭神は、素盞鳴命、大己貴命、櫛稲田姫命の3柱(江戸時代は、天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、若宮難波根子武振熊命(難波宿禰)の4柱という記録あり)であり、「和邇坐赤坂比古神社」の祭神は、阿田賀田須命と市杵嶋比賣命の2柱で、いずれの神社でも素盞鳴命や天足彦国押人命、彦国葺命など和邇氏の祖は祀られているもの、御真津日子訶恵志泥命(孝昭大王)は含まれていません。
 古墳時代から飛鳥時代、奈良時代の当時、和邇氏系氏族における「御真津日子訶恵志泥命(孝昭大王)」の立ち位置というのは、素盞鳴命、天足彦国押人命や彦国葺命らに比べて、若干距離があったのではないかと考えられます。

 ただし、この「御真津日子訶恵志泥命」由来説も、必ずしも間違っているとも言い切れないので、次の由来説を考えていく中で、総合的に検証していこうと思います。



(真野の田園風景)



フジイテツヤ







「真野」という地名の由来(1)



 大津市北部にある「真野」。
 私が11歳の時に引っ越してきてから、結婚後の数年間を除き30年近く住んでいます。


(まんだら山から真野、堅田、琵琶湖を望む)


 「シビック・プライド(civic pride)」は、自分が住む地域に愛着と誇りを持つことを言いますが、そのシビック・プライドを醸成し高めていくことが、まちの価値を高め、まちの活性化につながるという考えがあります。日本でいえば「京都」は当にシビックプライドが醸成され、それが町の活性化につながり、世界から観光客が訪れている代表例だと思います。

 自分が住む地域に愛着と誇りを持つために、私は市議会議員第2期目が始まってから、「真野」という地域を良く知ろうと歴史文化を学んできました。以前(2015年夏頃)に「真野シリーズ」を導入記事と合わせて11回連続で投稿しました。

 ・真野の歴史
 ・大津市真野について(1)~真野のシンボル~
 ・大津市真野について(2)~真野川~
 ・大津市真野について(3)~真野川②~
 ・大津市真野について(4)~2つの神田神社~
 ・大津市真野について(5)~真野の伝承~
 ・大津市真野について(6)~真野北~
 ・大津市真野について(7)~真野北②~
 ・大津市真野について(8)~戦国の真野①~
 ・大津市真野について(9)~戦国の真野②~
 ・大津市真野について(10)~戦国の真野③~


 少し間が空きましたが、この続きを加筆する形で、もう少し書いておきたいと思います。
 数年前に書いた記事であるにも拘わらず、当該記事を見て真野のことをより深く知ったという方に時々出会います。私自身の願いとしては、一連の記事を見て下さる方々にとって、シビックプライドが高まり、直接的・間接的に真野地域の活性化につながるのであれば幸いだと感じています。



 * * *

【「真野」という地名の由来】


 まず取り上げるのは、「真野」という地名の由来についてです。
 これについては諸説あり、大きくまとめると次の通りです。

「1」豪族・真野臣 由来説
「2」孝昭天皇(御真津日子訶恵志泥命)由来説
「3」景観 由来説 


 それぞれ自分なりの私見を交えながら検証をしたいと思います。


 最初は、「1」豪族・真野臣 由来説
 古代豪族に「真野 臣(まの・おみ)」がいました。この「真野 臣」にちなみ、その居住地である当地が「真野」と名付けられたのではないかという考え方です。

 初代「真野 臣」は、和珥部臣鳥 務大肆忍勝 です。
 西暦815年、嵯峨天皇の命によって編纂された古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」に、真野臣について記載された部分があります。


眞野臣
 天足彦国押人命三世孫彦國葺命之後也。男 大口納命。男 難波宿禰。男 大矢田宿禰。従氣長足姫皇尊[贈神功。]征伐新羅。凱旋之日。便留為鎮守将軍。干時娶彼國王猶榻之女。生二男。二男兄 佐久命。次 武義命。佐久命九世孫和珥部臣鳥。務大肆忍勝等。居住近江國志賀郡眞野村。庚寅年負眞野臣姓也。


藤井による現代訳
 第5代孝昭大王の皇子であった、天足彦国押人命(あめたらしひこ くにおしひとのみこと)の三世代目に当たる彦國葺命(ひこくにぶくのみこと)の後裔である。
 彦國葺命の子に大口納命、その子が難波宿禰、さらにその子が大矢田宿禰である。難波宿禰、大矢田宿禰は(高穴穂宮朝期に仲哀天皇妃であった)神功皇后の新羅遠征に従い、大矢田宿禰は凱旋の日に鎮守将軍となって現地に留まった。その時、新羅の国王である猶榻の娘を娶り、二人の男を生んだ。一人は兄の佐久命であり、もう一人は弟の武義命である。この佐久命の9世代目が「和珥部臣鳥(わにべおみ とり」や、「務大肆 忍勝(むたいし おしかつ)」などである。
 彼らは近江国志賀郡にある真野村に住んでいた。庚寅年(西暦690年)、真野臣の姓を与えられたのである。


 以上の記述から分かることは、真野臣が与えられる前に、「真野村」があったということです。真野村という地名が先にあって、その場所に住んだ「和珥部臣鳥」らに、姓・真野臣が与えられたという順序だと考えて問題ないと思います。

 周辺知識としては、壬申の乱(672年)で大海人皇子の舎人であり、湖東戦線で活躍した「和珥部臣君手(わにべのおみきみで)」が挙げられます。すでに渡来系名である「和邇氏」はその主流が倭言葉から生まれた「春日氏(大春日朝臣)」に移っておりましたが、和珥部臣に和邇の名前が残っています。
 和邇(丸邇)は製鉄技術を持っていたとされていますが、もともとは漁労民族と考えられており、仲哀天皇期から推古天皇の兄である敏達天皇の代まで継続的に妃(シャーマン・巫女)を嫁がせていました。しかし、当時の近代化により政祭一致(妃の占いで大王が政治を司る)の政治行政スタイルが古臭く感じられ、天智天武期には律令政治が主流になるにつれて、和邇氏本流は大春日朝臣や官僚を多く輩出した小野朝臣に分かれ、和邇氏から派生した和珥部臣は漁労技術を生かし大型河川で付近での採漁や水運を担っていたと考えられています。
 和珥部臣は、壬申の乱において君手が同族がいた尾張知多方面(愛知)や美濃(岐阜)で、大海人皇子(天武天皇)の兵力集めにも尽力しています。
 
 この和珥部臣君手の子(和珥部臣大石?)は近江国志賀郡司を務めていたとされていますが、君手が亡くなった際に、壬申の功臣であったとして官位を授けられています。
 「和珥部臣鳥」は、和珥部臣君手や大石とは同族であったものと思われますが、「鳥」の兄弟か息子と推定される「務大肆 忍勝」は、天武期(685年)にそれまでの冠位二十六階を改め、冠位四十八階が定められたが、その冠位の上から数えて31階目に位置する「務大肆」であり、「君手」が贈られた「直大壱(上から9階目)」と比べると、大きな格差があります。
 真野臣が「和珥部鳥」らに与えられた690年は、天武天皇が亡くなり4年後、その妃である持統天皇が即位した年になりますが、701年に制定される大宝律令に象徴されるようにそれまでの国づくりを改めようとしていた時期に当たります。地方豪族(和珥部など)を居住地域に土着させ(逆に言うと官僚による中央集権化を進める)る政策の一環で、その地域の名称を姓として与えたのではないかと私は思います。

 ちなみに志賀郡は和邇氏系氏族が全体的に管掌していたそうですが、6世紀以降、真野郷に和邇氏系氏族が集められ、それ以外の地(坂本以南)に渡来人(大伴氏、錦織村主など)を住まわせたとされています。
 真野郷という名称が近江大津宮(大津京)期に、すでに定着していたことを考慮すると、やはり、「真野」という地名は、真野臣が住む前に既に付いていた名称だと考えていいように思います。

 残り2つの由来説については、記事を改めて検証したいと思います。



フジイテツヤ













 

文化の秋。学区別意見交換会も進められています。


 11月3日の「文化の日」前後には、学区文化祭など多くのイベントが行われました。私も各所に呼んで頂き、各学区での文化振興の御取組みを知る事ができました。ありがとうございました。

 

 



 文化芸術は、一人一人の人生に彩りをもたらすものだと考えており幸福感と関係深いものだと思います。また地域にとっては文化芸術の花が開く場所に人が集まり、賑わいが生まれる素地となっており、まちおこしにとって欠かせない要素だと思います。一人ひとりにとっても、また地域にとっても文化芸術は大変重要なものです。これからも各自、各地域の文化芸術活動はどんどん奨励・支援されるべきだと思います。

 歴史好きの私にとって、小野公民館で行われた歴史講座「和邇氏の祖郷」という講演は、大変おもしろかったです。講師を務められた丸山竜平先生のお考えも含めながら、和邇氏系豪族のルーツやどのように隆盛したのかを聞く事ができました。
 真野には「春日山古墳群」という湖西最大規模の古墳時代中期から後期にかけての古墳群があります。名前の通り、「春日氏(大春日朝臣)」が根を張った地域とされており、この春日氏は和邇氏の系統でありながら、名前の由来となっている「(鉄のカス)糟が垣根のようになっている=カスガキ」というように、「鉄」と関わりが深かったこともあり、徐々に台頭し、和邇氏の本流になったものでした。その春日氏と同祖であるのが「小野氏(小野朝臣)」です。小野学区は小野妹子らを輩出した小野氏が居住していた地域とされています。
 私は「地名」に昔から興味があり、なぜその地名がついたのか、そのことを考えることが、その地域の文化振興や発展につながる鍵になり得ると考えています。そうしたことから、公民館でこうした地名の由来に関して歴史講座を開かれるのは大変意義深いものだと思っています。
 「真野」という地名についても、以前記事にしたことがありましたが、あらためて時間を割いてより詳しくまとめていきたいと考えています。

 
 *  *  *
 
 小野公民館による歴史講座を聞きに行った際、市民センター機能等あり方検討に関する学区自治連合会通信が置いてありました。地域に与える影響が端的にまとめられた資料だと思います。他の学区においても共通する課題も多く記載してあると思いましたので、ご紹介したいと思います。









 
 紙資料をスキャンしたもので文字が読みづらいかもしれません。 
 小野学区自治連合会さんがホームページにアップされておられますので、そちらからご覧ください

 小野学区は、私が住む真野学区とも隣接している旧志賀町の学区です。同じびわ湖ローズタウンにある真野北学区でも課題となっていますが、1980年代後半から大規模新興住宅街が形成され多くの方々が転入してこられ大変な賑わいとなりましたが、その子ども達が進学や就職、結婚などによって転出し、人口減少と高齢化率が高まってきています。
 小野小学校では1学年10人台、真野北小学校では1学年20人台となっており、将来的な学校統廃合に対する危機感が急速に高まってきていると聞きます。
 そうした地域において、支所を含めた市民センターは非常に重要な公共拠点となっており、この度の支所統廃合、市民センター機能等あり方検討には、当初から憂慮の姿勢を示してこられました。そうした声を聞き、地域の声を私も大津市行政にしっかりと伝えていかねばならないと考えています。


 「市民センター機能等あり方に係る 学区別意見交換会」も11月半ばまで、各学区で行われているところです。




フジイテツヤ





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